日本が銅メダルを獲得した1968年メキシコ五輪は、史上最強コンビの存在抜きには語れない。FW釜本邦茂が、東京からメキシコまでの4年間で、最も長く練習を積んだ相手がFW杉山隆一だった。監督長沼健とコーチ岡野俊一郎は、デットマール・クラマーの助言もあり、2人のホットラインを熟成させ、守備的な布陣から得点する戦術を固めた。

3歳年上の杉山が左ウイングで、センターフォワードの釜本にラストパスを送る。これが日本の得点パターン。代表合宿のたびに毎日、2人で居残り特訓に励んだ。

釜本 4年間、ずっと一緒にやっていたからね。杉山さんがこういう動きをしたら、どうやってパスが出て来るかを体で覚えた。

杉山は、静岡・清水東から明大を経て三菱重工入り。100メートルを11秒台で駆け抜ける快足プレーヤーとして鳴らした。東京五輪では、逆転負けしたアルゼンチンから「杉山の左足には20万ドル(当時7300万円)」の価値があると言われたという。

もっとも、左足を生かすきっかけになったのは、偶然にすぎなかった。59年の第1回アジアユース選手権(マレーシア)で、ある選手が学校の補習で合流が遅れ、監督高橋英辰は攻撃的MFだった杉山を左ウイングに抜てきした。これが後に、釜本の名パートナーとなる出発点になった。

長沼 チームの約束事は、杉山のスピードを生かすために左サイドの前のスペースを空けておこうということ。釜本といえども杉山の前には入るなと決めた。

連係を深めるために、お互いに遠慮はなかった。ときにはケンカ腰で言い合った。

釜本 そりゃ、やりやった。自分はこうやりたいとか、なんでここに出さないんだとかね。杉山さんも「なんで走ってないんだ」ってね。自分が出したいときに、そこにいないと怒られた。

2人は、要求をぶつけ合い、認め合って「あうんの呼吸」を築いていった。クラマーは言う。「FWのセンタリングに対する連動性は、センタリングが上がった後、目をつぶっていてもゴールにボールを入れられることを意味する」。釜本-杉山のコンビは、そのレベルに達していた。

67年10月のメキシコ五輪予選は、釜本がフィリピンから6得点するなど4試合連発の11ゴール。杉山は左肩脱臼を抱えながら、五輪切符がかかった最後の南ベトナム戦で決勝ゴールを決める。1-0。「アステカの奇跡」への道も2人が切り開いた。

メキシコ五輪で得点王になった釜本の7得点は、杉山のラストパスから決めたものが4点あった。特に3位決定戦でメキシコから奪った2点は象徴的。杉山がタイミングを計りながらDFの裏にフワリと出したクロスを、釜本が胸トラップから左ボレーで決めた1点目。中央に切れ込んだ杉山からパスを受けた釜本が、トラップした瞬間に右足シュート…。2人の汗と涙の結晶だった。

釜本 お互いを信じ合っていた。ものの見事に当たった。やってきたことが実った。それがメキシコ五輪だった。

(つづく=敬称略)【西尾雅治】

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