長崎・国見高で監督を務め、大久保嘉人氏らを育てた小嶺忠敏さん(現長崎総合科学大付監督)が7日午前4時ごろ、長崎県内で亡くなった。76歳。国見時代に03年度大会まで戦後最多6度の全国高校サッカー選手権優勝を飾り、昨年末に開幕した第100回大会でも、監督として長崎総科大付を出場に導いた。

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ただ今大会は、初戦から体調不良でベンチ入りできていなかった。人生のすべてをささげる熱血指導で、高校サッカー界をけん引していた名将として知られた。

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小嶺さんは高校サッカー界で「レジェンド」と呼ばれる名将の1人。大商大卒業後の1968年(昭43)に赴任した島原商の監督を経て、84年から、当時の「弱小国見」を率いて、情熱的な指導と革命的な戦術で常勝軍団に鍛えあげたことで知られる。

06年度まで国見を21年連続で選手権に導き、87年度に悲願の初優勝。「監督をして20年。やっとここまで来たかという思いだった」と感慨深く振り返った。

「鬼」と呼ばれた島原商時代そのままの厳しさで鍛えた成果だ。夏休みを利用した約30日の遠征では毎日、朝7時から1日4試合をこなしたという。

国見OBが「朝1試合してから朝食だったので、みんなその試合のことを朝食みたいに『モーニング』と呼んでいました。365日練習の日々。僕らのころは、年間400試合ぐらいしてたんじゃないですか。『モルモットにして、すまんかった』とよく言われます」と回顧するハードさだった。

元日本代表FW大久保も、小嶺の代名詞でもある「スパルタ指導」について「血ヘドを吐くようなきつい練習に逃げ出しそうになった」と振り返っている。毎日早朝に約1時間半ミニゲームなどを消化。夕方から約2時間の全体練習後、1000メートル走10本や10キロ走で体力強化。試合で走り負けない運動量は、学校の裏山にある4~12キロまで2キロずつ設定されたランニングコースなどで養われた。ただ、スパルタと言っても選手に対する「愛」が宿っていた。だから選手も慕った。

指導に情熱を注ぐあまり治療に行く時間も惜しんだ。歯医者に行かず、虫歯を部員にペンチで引っこ抜かせたことがあったというのは有名な逸話だ。国見時代、体調を崩して入院を勧められたことが何度もある。だが、その都度「病は気から。練習があるから休めない」と拒んだ。サッカーへの情熱はだれにも負けなかった。

そして、03年度までに、帝京(東京)と並ぶ戦後最多6度の優勝を積み重ねた。08年からは長崎総科大付を総監督として率い、13年の選手権初出場に導いた。15年からは、監督として指導に携わってきた。

とはいえ、総監督に就任当時の同校は長崎市でも「無名校」。それゆえ、逆に「チャレンジャー精神を忘れたら終わり」とのポリシーに火がついた。

サッカーを人間教育の一環と位置づけてきたことから、部員の礼儀や身だしなみから厳しく指導。スカウト活動も率先して行った。

時代も変わり、かつて「鬼」と形容もされたスパルタ指導はなくなったが、国見時代同様、自費で購入したマイクロバスで遠征にも出かけて場数を踏ませ成長させた。すべてをサッカーに注ぐ情熱は変わらなかった。

06年3月国見高校長を定年退職後も総監督として指導し、07年1月に総監督を辞した。選手権の監督通算勝利数(首都圏開催の76年度以降)は1位の73勝(島原商8勝、国見65勝)。育てたJリーガーは、元FC東京FW平山相太やDF徳永悠平、C大阪大久保嘉人ら30人以上にのぼる。サッカーに人生をかけるパワフルな指導者人生で駆け抜けた。