セルビアに住む日本人の友人が言っていたことを紹介したい。セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチアなど旧ユーゴスラビアの人にオシムさんのことを話すと、決まって「彼は偉大な監督であり、偉大な人間である」という答えが返ってくるという。

かつての隣人同士が悲劇的な戦争を経て、旧ユーゴは解体していった。民族の別を超えて尊敬を集めるオシムさんは稀有(けう)な存在だ。

私は01年から05年まで、セルビアの首都ベオグラードとクロアチアの首都ザグレブに2年ずつ住んだ。日本大使館で外交官として働いたのだが、現地の人たちと話す時、まずは相手の民族的なバックグラウンドに気を使った(セルビアに住んでいるからセルビア人、クロアチアに住んでいるからクロアチア人とは限らない)。特に、その人の他民族に対する姿勢を知るまでは。どんなに教育を受けている人でも、極めて排他的になる場合があった。そこを見誤り、会話が気まずくなる失敗もした。

例えば、留学先のベオグラード大学大学院で知り合ったセルビア人の学生。とても優しい子で、授業についていけない私だけでなく、日本の私の家族のことまで気にかけてくれた。ある時、政治問題で口論になった。他民族への攻撃的な発言が普段からはあまりにもかけ離れていて驚いたというか、ショックだった。ただ、その時、彼女がボスニア・ヘルツェゴビナから逃げてきた難民であり、目の前で、他民族の兵士に友人を殺されたことを知った。

彼女は決して極右ではないし、極めて聡明(そうめい)な人物だ。ただ、程度の差はあれ、個々が民族に絡むつらい経験をしていた。日本人が正論だけで語ることはできなかった。

どの民族からも尊敬されるオシムさんの偉大さを、あらためて思う。旧ユーゴ崩壊が迫っていた90年に、多民族からなるユーゴスラビア代表をまとめ上げW杯ベスト8。尊敬の理由は、その結果だけでなく、政治とは一線を引いたサッカーへのフェアな姿勢があったからだろう。

実は、記者になる前、少しだけオシムさんにお会いしたことがある。

05年秋に外務省を辞めた。それなりに充実した毎日だったが「スポーツの仕事がしたい」という学生時代の思いが再燃。30歳を前に決断した。

日本に帰ってきたはいいが、次のあてがあるわけでもない。お世話になっていたフリージャーナリストの方が「ジェフの取材でトルコに行くから一緒に行かない?」と声をかけてくれた。海外キャンプ先に同行させてもらい、千葉を率いていたオシム監督のインタビューの通訳をさせてもらった。ピッチ脇で3人一緒に練習を見ながら話を聞いた。内容は、ほとんど覚えていないが、もの静かなしゃべり口で、一語一語しっかり答えてくれた。

スポーツ記者になりたいと願いながら、何をどうしたらいいか分からず、もんもんとしていた当時無職の私にとって、とてもありがたい体験だった。その後、06年春に学生たちに交じって日刊スポーツの面接を受け、内定をもらった。オシムさんの通訳をした(正確には、オシムさんを取材した人の通訳だけど)ことは、面接でもアピールしたと思う。採用担当に確認したわけではないので、どれぐらい効いたかは分からない。ただ、全く畑違いの就職活動をしていく上で、オシムさんと短時間でも接点を持てたことは心の支えだった。

入社してからは担当が野球一筋で、お会いする機会はなかった。今はただただ「Hvala puno!」(ありがとうございます!)という気持ちでいる。【古川真弥】

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