浦和の元日本代表DF山田暢久(38)が来季の構想外となったことが19日、分かった。今季のリーグ序盤は出場機会に恵まれず、中盤以降は徐々に出場数も増えていたが、来季の契約を更新しないことになった。94年の入団以降は浦和一筋で、今季はJリーグ史上初めての同一クラブで20年目を迎えていた。J1通算500試合出場も達成した。クラブからはスタッフとして慰留されているが、今後については未定。

 浦和のレジェンドが、赤いユニホームに別れを告げる。山田暢が来季の戦力構想から外れることになった。94年の入団以降、浦和一筋で20年目を迎えていたが、今季リーグ戦の出場は10試合でフル出場は1試合のみ。近年は日本代表でも活躍するDF槙野、森脇らが加わったことで出場機会が減少。来年で39歳という年齢もあって、クラブは契約を結ばないこととなった。

 身長175センチと長身ではないが身体能力が高く、正確な技術と高い戦術眼から攻守どこでもこなせる万能型の選手だった。94年のリーグ戦初出場は3トップの一角だった。その後はFWだけでなく、右サイドを中心に中盤、サイドバックなどGK以外すべてのポジションをこなした。入団当初の横山謙三監督から、現在のペトロビッチ監督まで17人の監督から重宝された。

 選手寿命が短いサッカー界では、同一クラブで20年目を迎えるのは、Jリーグ初で世界的にも希少。入団当時のヘッドコーチだった落合弘ハートフルクラブ(スクール)キャプテンが言う。「高卒で初めて参加したシーズン前のキャンプで、ほかの選手らがけがで離脱する中、新人の山田暢久だけはけがひとつしなかった」。大きなけがと無縁だったことも、息の長い選手生活につながった。

 03年のナビスコ杯優勝で自身初のタイトルを手にすると、06年にリーグ優勝、07年にはアジアチャンピオンズリーグ制覇にも貢献した。また、日本代表でもジーコジャパン時代の02~04年、Aマッチ15試合に出場(1得点)した。

 同じく浦和一筋だった「ミスターレッズ」福田正博に次ぐ「2代目」として、サポーターから愛された。「功労者」ゆえ、クラブからはスタッフとして残ることを打診されている模様だが、構想外を伝えられた直後ということもあり今後については未定。ほかへ移籍し、現役続行の選択肢も残しているとみられる。

 浦和はリーグ戦で首位横浜から勝ち点1差の2位につける。500試合出場を達成した直後の取材エリアで山田暢は、今後の目標について「もう1回優勝したい」。置き土産となる2度目の優勝のみを見据え、残り3試合を全力で戦う。

 ◆山田暢久(やまだ・のぶひさ)1975年(昭50)9月10日生まれ。静岡県藤枝市出身。稲葉サッカースポーツ少年団でサッカーを始め、藤枝中、藤枝東高ではそれぞれ日本一を経験。94年、浦和に入団。同年4月27日の清水戦でデビューし、今年10月27日の柏戦で、史上3人目となるJ1通算500試合出場を達成(現在501試合25得点)。同一クラブでの達成は初。日本代表では、国際Aマッチ15試合1得点。175センチ、66キロ。A型。