日本がドイツと戦う。
11月23日。
偶然にしては、ちょっとできすぎのような気がしている。
キャプテンマークを巻き、日本を背負うまでに成長したDF吉田麻也(シャルケ)にとって3度目のワールドカップ(W杯)。22日の公式会見に森保一監督と並んで出席。「世界に大きなサプライズを起こせたらと思っています」などと意気込みを語った。
34歳になった吉田は、ここまで国際Aマッチ122試合に出場。その数字を、歴代3位タイまで積み上げてきた。
プロ入り時から意識が高く、積極的に経験豊富なベテラン勢から学ぼうとしていた。ピッチ内外で受けた影響、そのすべてを糧に成長を続けている。
長いプレミアリーグでの生活で英語を身に着け、イタリアのセリエA在籍時、コロナ禍で街がロックダウンになるとトレーニングとともに、イタリア語の習得に没頭。今季からドイツに活躍の場を移した。
日本を背負う選手になるまでの成長は、もちろん吉田自身の努力のたまものである。家族、所属先を含めた周囲のサポートがあったことも大きい。
加えて、もう1つ。節目に出会った恩人たちの後押しが吉田麻也というサッカー選手を形作る上では、欠かせない要素だった。
まだA代表にも縁がなかったプロ2年目の2008年。北京オリンピック(五輪)で、吉田はサプライズともいえる形で、五輪日本代表メンバー入りした。
1次リーグのオランダ戦に出場して、そのプレーで力を認めさせ、1年半後にオランダ移籍を成し遂げた。
10年に海を渡ってから今年で13年目。海外でもまれ、イングランド、イタリア、ドイツも含めた4カ国での経験を、まとめてドイツ戦にぶつける。
実は、北京五輪でのサプライズ選出の裏には、“推薦人”がいた。
もちろん選んだのは反町康治監督(現日本サッカー協会技術委員長)だが、“猛プッシュ”した人物がいた。
当時吉田がプレーしていた名古屋グランパスの久米一正ゼネラルマネジャー(GM)が、その人だ。
敏腕GMで知られ、多くのサッカー関係者との交流があった。後に、代表強化を取り仕切る技術委員会の委員も任されるなど、一目置かれる人物だった。
当時、吉田がサプライズ招集されたことは、ちょっとした話題になった。久米GMはニヤリと笑いながら、選出が当然とばかりに、語り始めた。
「日本サッカーの将来を考えれば、マヤを選ぶべき。選ばれて当然だ。よかった」
もしかして…。「反町監督に推薦したんですか?」と聞くと、否定も肯定もせず「ガハハハ」と笑い、自慢の息子というか、孫のようでもあった吉田の練習を遠くからうれしそうに見つめていた。
その久米さんは、もういない。
日本のサッカー界発展のため、もっともっと力を発揮してもらいたかったが、清水エスパルスに戻り、副社長をしていた2018年にがんでこの世を去った。
命日は11月23日。
ちょうど4年前の悲しい出来事だった。
当時英国にいた吉田はすぐにSNSで悼んだ。
「3月にお会いした時に『オフにまた必ず会おう』と言われたのにW杯後バタバタして連絡できず会えなかったのが本当に心残り。たくさん教えてくれ、たくさん助けていただきました。ただただ感謝しかないです。久米爺、心よりご冥福お祈り申し上げます」
こう感謝した。
きっと「久米爺」は、カタールで日本と吉田を見守っている。
と思えば、相手がドイツでも、少しは心強さが増す。
吉田が日本を背負って、ドイツ相手に守る。
その1歩、半歩、数センチが足りないときは、背中を押してくれる人がいる。
今日11月23日は、そんな特別な日でもある。
【八反誠】