日本代表として3大会連続でW杯に出場したFW本田圭佑(33=ボタフォゴ)は、強烈なリーダーシップを発揮しながら世界の頂点を目指してきました。日刊スポーツでは密着取材を続けてきた元番記者が「本田の名言 トップ10」を独断と偏見で選出。その発言の背景を振り返ります。第9回は2位。16強入りした10年W杯南アフリカ大会での発言に迫ります。

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「批判してくれたことを感謝しています。批判してくれる人がいなければ、ここまで来ることはできなかった」

 

2010年6月29日、南アフリカの内陸にある行政区のプレトリア。ロフタス・バースフェルドは、創設から100年を超える古いスタジアムだった。下馬評を覆し、決勝トーナメントに進んだ岡田ジャパンは、その初戦でパラグアイと対戦。0-0のまま、延長戦でも決着が付かなかった。迎えたPK戦。相手が5人全員が決めたのに対し、日本は3人目の駒野が失敗。長い試合の最後は、あまりにも辛い幕切れだった。

取材エリアでの光景は、10年が過ぎた今でもよく覚えている。

最初に姿を見せた中村俊が、代表からの引退を表明。PKを外した駒野は、目を真っ赤に腫らし、おえつを漏らしながらひと言も話すことができなかった。スイスでの直前合宿から1カ月以上、代表とともに過ごしてきた番記者も、涙を流している人が多かった。

本田はかなり遅れてロッカー室から出てきた。当時から、ほとんど取材エリアで話すことはなかったが、立ち止まり、フーッと息を吐くと言葉を絞り出した。

「多くの人が批判してくれたことを感謝しています。目標は達成していないけど、批判してくれる人がいなければ、ここまで来ることはできなかった。ガッカリしたかも知れない。失望させてしまったかも知れない。でも、真剣に応援してくれた人に、心からありがとうと伝えたい」

その言葉は、批判を浴びても、陰口をたたかれてもはい上がってきた男の偽らざる本心だった。ほんの1カ月ほど前までは控えの立場。開幕直前に1トップにコンバートされ、1次リーグ初戦のカメルーン戦で決勝弾、デンマーク戦では衝撃的なFKで得点を決め4戦2発と活躍した。大会前には岡田監督が進退伺を出す騒動になり、チームの骨格も定まらず、1次リーグ突破など夢のまた夢のように思われていた。批判を糧にし、チーム一丸となってつかんだ魂の16強進出でもあった。

それでも本田は「予選敗退も、16強もオレの中では一緒。個の力にはこだわってきたつもりだけれど、まだ物足りない。オレがパラグアイ人なら、今の日本に知っている選手はいない」と真剣に言葉をつないだ。

日本サッカーの機運は高まり、大会後にはイタリア人のザッケローニ監督が就任。14年W杯ブラジル大会へと大きな進化を遂げたかのように見えた。だが、サッカーとは残酷で、4年後には1勝もできずに大会から去ることになる。(続く)