[ 2014年2月12日9時8分

 紙面から ]女子ノーマルヒル1回目でジャンプする高梨(撮影・井上学) <ソチ五輪:ジャンプ>◇11日◇女子ノーマルヒル(HS106メートル、K点95メートル)

 初代五輪女王候補の大本命だった高梨沙羅(17=クラレ)が、まさかのメダルなしに終わった。新種目のジャンプ女子で1回目100メートルで3位につけたが、2回目98・5メートルと失速。合計243・0点で順位をメダル圏外に落とし、よもやの4位に沈んだ。昨季はW杯総合優勝を果たし、今季もW杯13戦10勝の実績をマーク。だが、期待されていた金はおろか、確実視されていたメダルさえも逃す結果となった。

 重苦しい空気が17歳を取り巻く。ソチのジャンプ台を高梨は攻略できなかった。助走路が緩やかで、飛び出しのタイミングが取りづらい。8日の初飛びから「助走路で自分の位置になかなか乗れない」と悩んでいた。10日の最終練習で100メートルジャンプを3連発したが、五輪特有の空気が張り詰める中、コンマ数秒の微妙なタイミングまでは修正しきれなかった。

 生活を「ソチ仕様」にして臨んだ。競技は午後9時30分開始。この時間に最も体が動くよう朝4時に就寝し、正午前に起床することを決めた。チーム全員で決めた“夜更かし”調整。コーチもみな、そのスケジュールで動いた。チーム一丸で金メダルを狙ったが、金はおろかメダルにさえ手が届かなかった。

 壮絶な五輪シーズンを送る。昨年11月下旬にW杯参戦のため欧州遠征に出発してから約3カ月、1度も帰宅していない。毎週のように試合をこなし、その間、3度の帰国と出発をはさみW杯13戦10勝で個人総合首位を独走。五輪直前も、個人3連覇した世界ジュニア選手権を含め1月下旬からの9日間で6戦を消化。実戦の中で微調整する高梨流だが、練習で多くの本数を飛ぶ調整法もあった。「先輩が作ってきた道を歩かせてもらっている。責任がある」と背負い込んだのも、17歳には重かったのかもしれない。

 11年4月に、女子ジャンプの五輪種目採用が決定。以降は「感謝」の2文字を心に刻み続けた。女子の大会がなかった90年代、山田いずみ氏(現全日本スキー連盟コーチ)らが男子に交じって競技会に参加。更衣室もない環境から世界大会が実施され、W杯、五輪開催までこぎつけた。その歴史を痛いほど知っている。

 4日未明にソチ入りする直前には、W杯をともに回った先輩から「沙羅ならできる」などと書かれたガムの箱をもらい、お守り代わりにしていた。「五輪に挑戦できるのは先輩たちのおかげ」が口癖。道を切り開いてくれた先輩ジャンパーに報いるメダルに、手が届かなかった。

 8日には現地入りした父寛也さん、母千景さん、兄寛大とともに食事をした。海外遠征中、納得がいかないと父に電話し、指導を仰ぐ。スキー板とブーツを固定する金具がずれていることが分かり直前の9日にはスキー板を替えた。父がソチに向かう前日6日、徹夜でワックスを塗り、家族3人で日本からそのスキー板を持ってきてくれた。

 ライバル不在で孤独な戦いを続けてきた中、家族にも支えられてきたが、メダルでの恩返しはならず。今季残されたW杯での総合2連覇で第一人者の意地を示し、ソチの忘れ物は4年後、平昌(韓国)で取り返す。<高梨沙羅(たかなし・さら)アラカルト>

 ◆生まれ

 1996年(平8)10月8日、北海道・上川町生まれ。ジャンプ原田雅彦氏と同郷。

 ◆競技歴

 上川小2年からアルペン用スキーでジャンプを始め、上川ジャンプ少年団に入って本格的に取り組む。

 ◆主な成績

 09年7月札幌市長杯宮の森サマーでノーマルヒル初優勝、同10月伊藤杯サマーファイナルでラージヒル初優勝。W杯では12年3月に15歳4カ月の史上最年少V。昨季個人総合優勝を果たし、今季13戦10勝で通算19勝。

 ◆国内最長

 11年1月のHBC杯(札幌・大倉山)で、女子国内最長の141メートルをマーク。

 ◆ジャンプ一家

 家族は両親と兄で、父寛也さんは元選手、兄寛大(明大)は現役選手。

 ◆高卒認定

 上川中卒業後、12年4月にグレースマウンテン・インターナショナル(北海道旭川市)に入学。半年後に高校卒業程度認定試験に合格した。

 ◆特技

 小3から始め発表会に出た経験のあるモダンバレエやダンス。

 ◆サイズ

 152センチ、45キロ。