服部勇馬(25=トヨタ自動車)が2時間11分36秒で2位となり、念願の東京五輪出場を決めた。

優勝した中村匠吾に次ぎ、40キロ以降は日本記録保持者の大迫傑とのデッドヒートを制した。4月に虫垂炎を患うなど調整に狂いが出ながらも、ピークを合わせて勝負強さを発揮。3人の弟妹ら家族の後押しも受け、“服部家の長男”が学生時代から夢見た大舞台の切符を勝ち取った。

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最後は執念だった。ラスト約200メートルで迎えた最後の上り坂。3位だった服部が一時は遠ざかった大迫の背中を一気にとらえ、抜き去った。「大迫さんが後ろを振り返ったので、チャンスがあると思った」。何度仕掛けられても食らいつき、東京五輪出場が決まる2位以内に土壇場で飛び込んだ。

自信があった。チームの練習拠点は愛知にあるが、昨年12月にMGCの出場権を得て以降は東京を訪れる度にコースを試走。課題だったレース終盤の失速を防ぐため、日々の練習では40キロ走の翌日に山岳コースを走るなど距離を積んだ。同時に苦手だった上り坂の走り方も見直し、足の後ろ側の筋肉を使って地面を蹴るよう改善。この日も37キロ付近から足の前側に疲労を感じていたが、最後の上り坂で鍛えた走法が功を奏し「足が残っている自信があった」。弱点を克服して起こした逆転劇だった。

つらい時は家族の姿も思い浮かべた。ユニホームの左胸につけたお守りは10歳下の妹葉月さんから。中には一昨年に亡くなった祖父母の写真が入っていた。弟風馬(ふうま)さん(22)は競技に専念できるよう実家の建設業を継いでくれた。大迫とデッドヒートを繰り広げた41キロ地点には地元新潟から訪れた約80人の応援団とともに声援を送る弟弾馬(はずま、24)の姿もあった。「その思いをしっかり持って走れたのがゴールまでつながった」。前を追う足を止めるわけにはいかなかった。

東京五輪を夢見てマラソンを始めた。MGCへの調整を本格化させた今年4月には虫垂炎で入院。約2週間、練習ができない苦難も乗り越えた。「いろんな経験をしてようやくスタートラインに立つことができた。五輪でも最後まで諦めない今日みたいな走りをしたい」。スッキリとした表情で1年後の大舞台を見据えた。【松尾幸之介】

◆服部勇馬(はっとり・ゆうま)1993年(平5)11月13日、新潟県十日町市生まれ。中里中から陸上とスキー距離を始める。仙台育英高-東洋大。大学2年時に30キロで1時間28分52秒の学生新記録を樹立。18年の福岡国際マラソンで日本歴代8位の2時間7分27秒で14年ぶりの日本人優勝。5000メートル13分36秒76、1万メートル28分9秒02。176センチ、63キロ。血液型O。