新型コロナウイルスが流行する前まで主力だった佐藤美弥の名は、読み上げられることはなかった。6月末の東京オリンピック(五輪)バレーボール女子代表選手発表会見。中田久美監督が選んだ12人の中に、2019年ワールドカップ(W杯)の正セッターの名前はなかった。

6月のファン感謝祭であいさつする佐藤美弥さん(日立リヴァーレ提供)
6月のファン感謝祭であいさつする佐藤美弥さん(日立リヴァーレ提供)

9年間プレーしたVリーグの日立に別れを告げ、今年5月に現役を引退した。最後のシーズンは度重なるけがに悩まされ、わずか2試合の出場。モチベーションが落ち、途中で投げたしたくなることもあった。

五輪1年延期がなかったら、運命は違ったかもしれない。それでも、佐藤さんは「五輪の舞台に立てなかった悔しさはあっても、後悔はありません」。晴れ晴れした表情を浮かべながら、続けてこう言った。「私は私のバレーボールをやりきりました」。

オンラインファン感謝祭で引退報告をする元バレーボール女子日本代表セッターの佐藤美弥さん(日立リヴァーレ提供)
オンラインファン感謝祭で引退報告をする元バレーボール女子日本代表セッターの佐藤美弥さん(日立リヴァーレ提供)
今年6月に行われたオンラインファン感謝祭に参加した元バレーボール女子日本代表セッターの佐藤美弥さん(中央)(日立リヴァーレ提供)
今年6月に行われたオンラインファン感謝祭に参加した元バレーボール女子日本代表セッターの佐藤美弥さん(中央)(日立リヴァーレ提供)

「高校時代で終わるものだと」から一転、大学で成長し17年から代表定着

佐藤さんは小学4年でバレーボールを始め、その1年後にはセッターとしてプレー。秋田・聖霊女子短大付属高時代には12年ロンドン五輪銅メダリストメンバーの江畑幸子さん(31)と共に全国大会に出場した。

世代別の代表経験はなく「高校時代でバレーは終わるものだと思っていた」というが、東京・嘉悦大進学を機に「ちゃんと頭で考えて、実践するようになった」と考え方に変化。成長を遂げて卒業後に日立に加入。175センチの長身セッターは、2季目から主力としてコートに立った。

中田監督体制になった17年ごろからは、代表メンバーにも定着。アタッカーに自由を与える的確なトスワークを武器に、日本伝統のコンビバレーを支えた。12チーム中5位で終えた19年W杯は全試合に出場し、司令塔役として攻撃をリードした。

練習に励む佐藤さん=2018年4月17日
練習に励む佐藤さん=2018年4月17日

年を重ね実感した代表の重圧。「負けちゃいけない、ミスしちゃいけない」

年齢的にも集大成として考えていた東京五輪。性格は「結構ネガティブで悩んじゃうタイプ」(佐藤さん)と言うように、レギュラーの座をつかんでも落ち着かなかった。むしろ、年齢を重ねるうちに1点、1点の重みをさらに意識するようになり、思い切ったプレーができずに悩んだ。

「最初は日の丸を付けて世界を相手に戦うことにワクワクしていましたけど、代表に定着したころから勝たなきゃいけないというプレッシャーに押されて…。負けちゃいけない、ミスしちゃいけないと考えるようになりました」。

「正セッターは佐藤」「代表入りは確実」など聞こえてくる世間の評価。それに対して、自身の手応えは正反対だった。

「セッターとしてチームを勝たせることができず、五輪に出られるなんて全く思っていませんでした。生き残りを掛けて切羽詰まった状態でした」。

2018年9月の韓国戦で、スパイクを決め喜ぶ奥村(中央)。左は佐藤、右は新鍋
2018年9月の韓国戦で、スパイクを決め喜ぶ奥村(中央)。左は佐藤、右は新鍋

五輪延期「うそでも良いとは言えなかった」

覚悟を持って20年初頭の代表合宿に臨んだが、新型コロナの影響で五輪1年延期。合宿も途中で打ち切りになり、しばらく気持ちの整理がつかなかった。「(五輪が)今年あると思って準備してきたにのに、うそでも来年で良いとは言えなかった」と、親など心を許せる人に悩みを打ち明けた。ただ、納得いく決断が一向にできなかった。

中田監督と代表候補選手たちのグループラインには、五輪1年延期を前向きに捉えるコメントが相次いでいた。そんな中、代表選手がこんな考えでいいのか。日の丸を背負って戦う選手の姿とかけ離れた悩みを抱える自身に対し、もやもやが晴れなかった。

相手のスパイクをブロックする日立の佐藤美=2016年10月29日
相手のスパイクをブロックする日立の佐藤美=2016年10月29日

スポーツカウンセラーとの面談で気持ちに変化。現役続行を決断

転機が訪れたのはVリーグ開幕前の昨年6月。所属する日立のスポーツカウンセラー武田大輔さんとの面談だった。五輪延期への不安、もどかしさなど涙ながらに打ち明けた。

「ずっと泣きながら話したら、代表選手はこうあるべきとの理想に縛られている自分に気がつきました。もう1回理想のプレーは何なのか突き詰め、その過程がオリンピックにたどり着けば最高だと考え直したんです。もうちょっと頑張ろうと、徐々に切り替えることはできました」。

代表紅白戦で右アキレス腱(けん)損傷、さらに腰痛め長いリハビリ生活

ところが、その後はけがとの戦いが続いた。

昨年8月の女子代表紅白戦に出場した際、第3セットで右アキレス腱(けん)を損傷した。下がりながらジャンプトスした際の踏み切りで、「バーン!」と棒でたたかれたような強い衝撃が右ふくらはぎを襲った。

Vリーグでの挽回を期しリハビリに励み、開幕戦に途中出場。フルセットにもつれる熱戦を制したが、その試合でも同じ箇所を負傷した。診察した医師からは手術はしなくても五輪に間に合うと言われたが、実戦を詰まないといけないと気がせいた。

年明けから復帰できるように準備していた矢先、今度は中学時代から抱える腰の痛みが再発した。ヘルニアと腰椎分離すべり症、アキレス腱(けん)に加え、18年頃から痛む右肩も悩みの種だった。

復帰の見通しが立たない中、コートに戻る姿を心待ちにするチーム、代表の仲間たち。心配してくれているのにずっと期待に応えられないふがいない自分に嫌気が差して「誰とも話したくなかった」。

日立の多治見監督、代表の古賀らの言葉励みに再起決意

このまま中途半端な思いを抱え現役生活にピリオドを打つか、それとも…。日立の多治見麻子監督の言葉が、ふさぎ込んでいた自分に再び火をつけた。

佐藤さん(左から3人目)を含む引退選手らと写る日立の多治見監督(同4人目)(日立リヴァーレ提供)
佐藤さん(左から3人目)を含む引退選手らと写る日立の多治見監督(同4人目)(日立リヴァーレ提供)

「麻子さんは“ワンプレーでも良いから私は純粋にコートに立つ美弥が見たいし、チームも一緒にプレーしたいと思っているよ”と言ってくれて。最後までやり切ろうと思えたのは、あの言葉に応えたいと思ったからでした」。

痛みを和らげるブロック注射を腰に打ち、コルセットを装着する満身創痍(そうい)の状態。当時の様子について、多治見監督は「(佐藤は)日ごとに体調も変化する中、歩くことすら痛そうにすることがほとんどでした」と振り返る。

コートの脇で2人でよく話した。たわいのない世間話から、現役時代の苦い経験も伝えた。

多治見監督は00年シドニー五輪を目指す女子代表の主将をしていた時に左膝のけがで思うようなプレーができず、最終予選メンバーから漏れた。受け止めるのに時間がかかったが、その悔しさをバネに、08年北京では自身3度目(92年バルセロナ、96年アトランタ)となる五輪出場を果たした。実体験を通して愛弟子に伝えたかったのは「現実を受け止めて、次どうするか」だった。

女子代表で共にプレーした古賀(左)と奥村に挟まれて、笑顔を浮かべる佐藤さん
女子代表で共にプレーした古賀(左)と奥村に挟まれて、笑顔を浮かべる佐藤さん
現役時代に仲の良かった古賀(左)と奥村に挟まれて写真に収まる佐藤さん
現役時代に仲の良かった古賀(左)と奥村に挟まれて写真に収まる佐藤さん

仲のいい女子代表副主将のアウトサイドヒッター、古賀紗理那(25=NEC)には「コートでまた美弥さんの上げたトスで打ちたいです」とメッセージをもらい、背負っている重荷が軽くなる気がした。嘉悦大時代同期で代表でもプレーしたミドルブロッカーの奥村麻依(30=デンソー)と共に、仲間の期待がもう1度自分を奮い立たせた。

「逃げずに向かったからこそ、やり切ったという気持ちで終われた」

復帰戦に見据えた今年4月の黒鷲旗全日本選抜大会は中止となり、結局佐藤さんが再びコートに立つことはなく、5月に引退を決断し、所属の日立も退団した。しかし、悲嘆に暮れるような様子はない。「代表落ちしたまま引退していたら、投げ出して終わったということ。逃げずに向かっていったからこそ、最後までやり切ったという気持ちで終われました」と話す。

幾多の苦難に直面した1年を乗り越えて心境にも変化が生まれた。

「今まではオリンピックに出られない自分が怖かった。周りからの評価におびえ、バレーボールがなかったら何も残らないんじゃないかと思ったこともありました」。

五輪代表落ちした後も復帰に向けて努力を続けた過程は、決して無駄ではなかった。自分の頑張りを肯定する気持ちが芽生えた。

世界バレーの会見で、中田監督へのサプライズの誕生日ケーキに笑顔を見せる女子日本代表の選手たち。後列左から3人目が佐藤さん=2018年9月
世界バレーの会見で、中田監督へのサプライズの誕生日ケーキに笑顔を見せる女子日本代表の選手たち。後列左から3人目が佐藤さん=2018年9月

「プレーする姿は誰かの心を動かす」

代表発表会見で中田監督は涙交じりに、選考理由を語った。17年就任以来50人の候補選手の中には、佐藤さんも含まれる。一人一人を思い浮かべるように「私なりにこの50人に対して敬意と感謝を込めた」と、12人の名を読み上げた。

選ばれた中には、仲の良い古賀や奥村の名もあった。奥村は「(佐藤さんが)引退してから、後悔のないようしっかり日々過ごしていかきゃいけないとより強く思いました」と述べ、仲間の思いも背負ってコートに立つ覚悟を見せた。

日の丸を付ける期待や重圧を感じながら、コートに立つかつての仲間たちへ。佐藤さんは「あの舞台にいるだけで十分に戦っているのは分かっているから。まずは自分のために全力でプレーしてほしい」と訴える。

この1年の厳しい道のりを経て佐藤さんは「勝ち負けはもちろんですが、試合に向けて努力する過程が誰かの心を動かす」と心の底から感じた。開幕まで1週間を切った東京五輪。かつての仲間たちに心からとエールを送る。「頑張れ」。あなたのプレーする姿はきっと誰かの胸を打つと信じて。【平山連】

今年5月に引退した元バレーボール女子日本代表セッターの佐藤美弥さん(撮影・平山連)
今年5月に引退した元バレーボール女子日本代表セッターの佐藤美弥さん(撮影・平山連)

◆佐藤美弥(さとう・みや)1990(平2)3月7日、秋田市生まれ。小4でバレーボールと出会い、小5からはセッター一筋。秋田・聖霊女子短大付属時代、東京・嘉悦大と競技を続け、卒業後の12年に日立加入。17年の中田久美監督体制下で数多くの試合に出場し、司令塔として攻撃陣をけん引した。12年ロンドン五輪銅メダルメンバーの江畑幸子さんとは同じ幼稚園に通い、高校、実業団とチームメートだった。