甲子園や高校サッカーといった全国の舞台で結果を残す強豪校では、中心として注目される選手がいる一方、3年間を補欠のまま終わる選手もいる。1度も脚光を浴びることなく高校での部活動を終えた彼らは、卒業を前に何を思うのだろうか。野球強豪校のある選手が、心中を明かした。


選手からの転向をチームメートに宣告され

学生コーチとしてチームを支えた花咲徳栄・和田駿也。背後には昨夏の甲子園第101回大会出場を記念したボールが飾られている(撮影・湯本勝大)
学生コーチとしてチームを支えた花咲徳栄・和田駿也。背後には昨夏の甲子園第101回大会出場を記念したボールが飾られている(撮影・湯本勝大)

「監督が学生コーチをやってくれないかと言ってるよ」。選手からの転向を突然チームメートから宣告されたら…。花咲徳栄(埼玉)・和田駿也選手(3年)は「なんで俺?」と目を見開いた。2年秋。最初は納得がいかなかった。選手として試合に出られなくなる。選手にこだわるか、学生コーチとしてチームを支えるか。16歳には重すぎる決断を強いられることになった。

今春のセンバツ出場、夏の甲子園には5年連続で出場中の花咲徳栄。聖地の土を踏むため、全国各地から選手が集まる。北海道・伊達市出身の和田も、夢をかなえるために強豪校の門をたたいた。09年のWBCで日本代表の優勝を決定づけたイチローの一打で野球に魅了され、小3で野球を始めた。洞爺湖リトルシニア時代は投手兼右翼としてプレー。1度は道内の高校への進学を考えたが、同じチームでプレーをしていた橋本吏功、川内輝と共に夢を追うことにした。和田は「道内よりは環境が整っているし、甲子園に行けるチャンスがある。3人で甲子園に行くぞと誓いました」。親元を離れ、寮生活を送ることを決意した。

花咲徳栄硬式野球部に外野手として入部。しかし、すぐに現実が待っていた。周りは中学時代から実績のある選手ばかり。練習のときから圧倒された。「中学と高校のレベルの差を感じました。同級生も飛距離、スイング、スピード、すべてが違った」。和田が入学した17年に埼玉県勢初の全国優勝。先輩たちの勇姿をアルプススタンドで見届けた。「抜け目のない打線。誰もが打ってて、守備も堅い。これが日本一のチームなんだと思った」。感じたレベル差を少しでも埋めるために、全体練習後もバットを振り続け、午後10時になることもあった。努力を重ねても、出場機会に恵まれなかった。昨夏時点での部員数は156人という大所帯。チームはAとBに分けられ、完全に別行動となる。

1年秋から、ともに上京した橋本が主軸に抜てきされた。一方で和田はBチーム暮らしが続いた。2年生になり、新チームがスタートしても変わらなかった。6人部屋の寮では、主将の吉倉や橋本、後にプロ野球の広島に入団することになる韮沢など、和田以外の5人は背番号をもらっていた。Aチームが遠征に出ると、部屋に1人残され、悔しさを押し殺していた。


電話越しに北海道の母は「やりたい方を」と

花咲徳栄の北海道出身トリオ、左から和田、橋本、川内(撮影・金子真仁)
花咲徳栄の北海道出身トリオ、左から和田、橋本、川内(撮影・金子真仁)

転機は2年の11月下旬だった。チームは練習試合を行っていて、運営の手伝いをしている最中に突然声をかけられた。声の主は数カ月前に選手からマネジャーに転向した川内だった。「監督が学生コーチをやってくれないかと言ってるよ」。甲子園を目指し共に津軽海峡を渡った仲間からの宣告。「えっ!っていう感じです」。頭の中が真っ白になった。「北海道を出て寮生活をさせてもらった。3年間続けてプレーしている姿を家族に見せたかったので、申し訳ない気持ちでいっぱいだった」。スマホを手に、すぐに両親へ電話した。「学生コーチって選手としてはもう出られないの?」。電話越しに伝わる両親の心配。「出られないけど、メンバーつきっきりで裏方に回る」。正直に告げた。「親をわざわざ気にしなくて良いよ。やりたい方をやりなさい」。コーチになることへの引け目がスッとなくなっていった。同郷の2人にも相談した。「ぜひやってほしい。1人がスタンドとかじゃなくて、3人そろって甲子園に行こう」。同部屋の仲間からも「みんなと一緒に遠征に行けるし、メンバーと行動できるし。やってほしい」と背中を押された。「このままBチームにいて何もせず終わるよりはチームを支えたい」。学生コーチを打診された日の夜には転向を決心した。

翌日から学生コーチとしての生活が始まった。岩井隆監督(50)から伝えられた練習メニューを選手に伝える。岩井監督が選手に送った助言をノートにメモする。視野を広げるためにごみ拾いも始めた。打撃投手を務めたり、ノックを打ったり、トスを上げたり、裏方としての仕事を数多くこなした。練習以外の時間でも相談役として選手の話を聞いた。「打撃で悩んでる選手がいたらスマホで動画を撮って見せたり、『岩井監督がこう言ってたよ』とメモを見返しながら伝えたりしてました」。選手たちにとっても同年代だからこそ、気軽に相談できる。選手に寄り添い続けた。

迎えた最後の夏。チームは5年連続の甲子園出場を決めた。2回戦の明石商戦ではボールボーイとしてグラウンドに立った。川内は記録員として、橋本は不動の2番センターとして、同じ場所に立てた。高校入学当初に抱いた夢とは少し形が変わったが「3人で甲子園」を実現させた。

花咲徳栄の3年間を振り返り「今思えばあっという間。コミュニケーションの取り方を学べた。相手がどう思っているか考えたり、監督や部長、コーチなどと接して、目上の方との話し方を学べた。学生コーチになってよかったです」。少し伸びた髪の毛を触りながら笑った。


笑顔で野球に「さよなら」…俯瞰して学んだ人間性

花咲徳栄対明石商 7回表花咲徳栄1死、本塁打を放つ菅原(撮影・大野祥一)
花咲徳栄対明石商 7回表花咲徳栄1死、本塁打を放つ菅原(撮影・大野祥一)

4月からは大学生になる。市役所に勤めるという新たな夢に向かって、法学部で勉強する。野球とはお別れだ。「勉強もそうですけどアルバイトをしたり、高校ではできなかったことをしたいです」。趣味は音楽を聴くこと。大好きなRADWINPSのライブも現役時代は我慢し続けた。「5月にライブがあるんですよ。2日分チケット取っちゃいました。めちゃくちゃ楽しみです」。あどけなさが残る笑顔からは高校3年間を全力で走り抜けたすがすがしさを感じた。野球を俯瞰(ふかん)して見る立場になったことで、より人間性を磨けたのではないだろうか。 取材の間、和田は終始真面目に自身の経験を語ってくれた。そんな誠実なたたずまいは、26歳の記者が見習わないとと感じるほどだった。取材を終えると「これが記事になって、ラッドの人たちが読んでくれたりしないですかね。会ってみたいなあ」といたずらっぽく笑い、初めて18歳らしさを見せた。高校球児からごく普通の大学生へ。未来へ向けて新たな1歩を踏み出した。【湯本勝大】