『霊長類最強』という表現がある。近年、格闘技などで無敵の王者の強さを誇張するキャッチコピーとして使われる。

総合格闘技で一時代を築いたPRIDEヘビー級王者のエメリヤーエンコ・ヒョードルや、女子レスリング五輪3連覇の吉田沙保里も現役時代にそう呼ばれた。『最強』は分かる。でも、なぜ『人類』ではなく『霊長類』なのか。ゴリラを倒したわけでもないのに。

この表現はメディアの安易な思い付きではない。『霊長類』になった発端となった試合がある。1996年7月、アトランタ五輪のレスリング男子グレコローマン130キロ級決勝。3連覇を目指す28歳のアレクサンドル・カレリン(ロシア)と、地元米国の期待の星、34歳のマット・ガファリの一戦である。レスリングの担当記者だった私もその現場にいた。

当時、カレリンは五輪2連覇、世界選手権6連覇中の無敵の王者だった。ところが五輪3カ月前に右肩を手術して、本番までまったく練習できなかった。開幕前は「今回はメダルも厳しい」との見方も少なくなかった。しかも会場は超満員の完全アウェー。しかし、結果は前回大会に続いて1ポイントも奪われずに金メダル。体重で30キロ上回るガファリの攻撃に、193センチ、130キロの巨体はグラリともしなかった。

試合後の会見で、敗れたガファリがあぜんとした顔でこう言った。「彼はキングコングだ。最も強い霊長類のゴリラにレスリングを教える以外、彼を倒す方法はない」。以降、『霊長類最強』という異名がカレリンの代名詞になった。その後も彼は強かった。87年から00年まで出場大会76連勝。世界選手権の連覇も9まで伸ばした。その仰々しい異名は、彼が勝利を重ねるたびに輝きを増し、広く知られるようになった。

ちなみに霊長類とはヒト、猿、類人猿などで構成されるグループのこと。果たしてカレリンはゴリラより強かったのか。確かに握力500キロと言われるゴリラのパワーはすさまじい。一方、カレリンも背筋力400キロ、手のひらの長さは35センチもある。大型冷蔵庫を片手で担いでマンション8階の自室まで運んだという逸話も聞いた。どちらが強いかは想像の域を出ないが、想像したくなるほど、彼の強さは人間離れしていた。

では吉田沙保里はなぜ『霊長類最強女子』と呼ばれたのか。12年ロンドン五輪で3連覇を達成した彼女は、同年9月の世界選手権で10連覇を達成。五輪と世界選手権を合わせた世界大会の連勝を13として、カレリンの偉大な記録を超えたからだ。もっとも風貌もどことなくゴリラに似ていたカレリンはともかく、女性の吉田に「霊長類」の異名はちょっと気の毒のような気もする。いずれにしても2人の偉業と突出した強さを考えれば、『霊長類最強』は安易に乱発してほしくない。(敬称略)【首藤正徳】

ロンドン五輪 金メダルを獲得し、ガッツポーズする吉田沙保里(2012年8月9日撮影)
ロンドン五輪 金メダルを獲得し、ガッツポーズする吉田沙保里(2012年8月9日撮影)