昭和40年代半ば、家族でテレビを囲んでプロレスを見ていた。わが家のヒーローは人気絶頂だった日本プロレスのジャイアント馬場やアントニオ猪木ではなく、国際プロレスのエース、ストロング小林だった。当時、地元の大分県の民放はOBS大分放送1局だけで、プロレス中継はTBS系の国際プロレスしか放送がなかったからだ。

その小林の強かったこと。得意技はバックブリーカー。ボディービルで鍛えた怪力で、外国人にも力負けしなかった。IWA世界ヘビー級王座をビル・ロビンソンら強敵相手に実に25度も防衛した。対戦相手のロビンソンやモンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)の名前は、私の母親でも知っていた。あの時代のプロレスは家族で楽しむ娯楽だった。

今年1月6日、ストロング小林さん死去のニュースが報じられた。昨年12月31日に東京・青梅市内の病院で亡くなっていた。81歳だった。突然の訃報に半世紀も前の記憶が、おぼろげによみがえってきた。若き小林さんの勇姿と一緒に、過ぎ去った家族だんらんの風景を思い出しながら、子供のころにプロレスに夢中になったきっかけは、ストロング小林だったのだと、気が付いた。

昭和のプロレスは、個性派の超人たちの大活劇だった。身長223センチのアンドレ・ザ・ジャイアントは雪男のようだったし、額から流血してフォークで相手を突き刺すアブドーラ・ザ・ブッチャーはゾンビに見えた。マスクを試合のたびに替えるミル・マスカラスは鳥のようにリングを舞った。鉄のツメ、生傷男、人間発電所。ニックネームを聞いただけでワクワクした。ストロング小林は『怒濤(どとう)の怪力』だった。

お年玉で購入した『プロレス入門』の中の、人間離れしたレスラーたちの逸話も、超人神話に拍車をかけた。一晩でビール10ダースを飲み干した。ニワトリを10羽もたいらげた。バケツ2杯分も流血した。ニードロップで耳をそぎ落とした。口から火を吹いた。牛乳を5ガロンも胃袋に流し込んだ……1ガロンがどれほどの量かも知らなかったが、レスラーへの誇大妄想はさらに広がり、プロレスへの興味はどんどん膨らんでいった。

そんな強烈な存在感をもつ超人たちが、毎週テレビを介してお茶の間に登場し、殴り合い、血を流し、隠し持った凶器を突き刺す。スポーツとはいえず、ドラマでもない。大衆はそんな現実と虚構の奇妙な境界線に引きずり込まれ、興奮した。ルールやモラルに縛られた窮屈な社会に抑圧された人間の本能が刺激されるのだ。それこそがプロレスの魅力だったのだと思う。

今年1月4、5日の両日、新日本プロレスの東京ドーム大会をリモート取材した。レスラーは総じて身なりも身のこなしもスマートで、前座試合から派手な大技の応酬が繰り広げられていた。曲芸を売り物にするエンターテインメントのようにも見えた。家族で楽しむ時代はとっくに過ぎ去り、観客席には若い男女が行儀よくイスに座り、逃げ惑うこともない。入場するレスラーに群がっていた子供たちも姿を消していた。

昭和のプロレスは、もっと野蛮で、怪しげで、殺気に満ちていた。そんな思いで、半世紀という時の流れを感じながら取材していたら、1月5日のセミファイナルに目がくぎ付けになった。リング内に持ち込んだハシゴに登った棚橋弘至が、約5メートルの高さからムーンサルトで、リング上の机にあおむけになったKENTAにダイブを決めたのだ。机は真っ二つ。KENTAは口と鼻から血を吹いた。

試合はそのままフォールした棚橋の勝利。驚いたのは2人とも大したケガもなく、立ち上がってリングを下りたことだ。半世紀前とは、プロレスラーの風貌も、リングの上の攻防も、会場の空気も様変わりした。しかし、時代が移ってもプロレスラーが超人であることに変わりはない。そこに今も変わらぬプロレス人気の根源があるのだと思った。【首藤正徳】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「スポーツ百景」)