産声を上げたのは、1923年(大12)9月1日に発生した関東大震災の約2カ月半後。震災による火災で一家は墨田区錦糸公園近くの自宅を焼け出され、当時の荒川区三河島町に身を寄せていた。それが母体に影響したのか、予定より1カ月も早い早産で、体重は700匁(もんめ=2625グラム)にも満たなかった。

幼少期は弱虫だった。いつも同じクラスのガキ大将に文房具などの貢ぎ物を要求された。転機は小学5年生の時。たまりかねて担任に窮状を訴えたら「男なら堂々と闘ってみろ」とけしかけられた。放課後、意を決してガキ大将に「決闘」を申し入れた。

場所は学校近くの野原。無我夢中で取っ組み合った。「やあ」と声を上げて腕に力を込めたら、相手が足元に倒れていた。「自信が生まれた瞬間でした。それから運動嫌いだった僕が、相撲や剣道を始め、一番になるようになりました」。生前、ご本人から伺った。

少年はやがてボクシングを始め、戦時下の1943年(昭18)11月、1回KO勝利でプロデビューを果たす。日本人初のプロボクシング世界王者・白井義男さんである。

今年11月23日がちょうど生誕100年。そして、同26日はプロデビュー80年の節目になる。

戦前は8戦全勝も、海軍で腰を痛めた影響で戦後は低迷した。48年(昭23)7月、2度目の転機が訪れる。銀座のジムで練習中、見学に訪れた連合国総司令部(GHQ)に勤務していた生物・生理学者の米国人カーン博士から声をかけられた。「私が専属コーチになろう」。

博士にボクシングの経験はなかったが、イリノイ大で人体と運動の関係性を研究し、実際にテニスやボクシングなどのスポーツ選手たちにアドバイスをしていた。ゆえに博士の指導は徹底的に理詰めで、基本動作の反復を重視した。

「左ジャブだけを2時間練習する日もありました」と後年、白井さんは回想している。「変な外国人につかまったもんだ」。ライバルたちは嘲笑したが、博士とコンビを組んで以降は連戦連勝。国内のフライ、バンタムの2階級を制覇すると、52年5月19日、世界フライ級王者ダド・マリノ(米国)を判定で破り、世界の頂点に駆け上がった。

白井さんには『日本人初の世界王者』という金看板以上の功績が二つある。

一つは前進してパンチを打ち続ける“打たれても打つ”精神主義の肉弾戦が主流の時代に、左ジャブを主体にした技術重視のアウトボクシングを実践。“打たせないで打つ”科学的ボクシングで勝ち続け、日本人の意識を変えたことだ。

ボクシング歴史研究家の津江章二氏は「当時の世界王者は8階級に8人だけ。日本人の手の届かない別世界ものと思われていました。そんな時代に彼は頂点に立ち、4度も防衛に成功した。そのスピードとテクニックは、今でも十分に通用する」と分析する。

もう一つは白井さんが世界王座挑戦権をつかんだことで、統括団体の日本ボクシングコミッション(JBC)が誕生したことである。それまでジムや協会が独自に選手や試合を統制していたが、世界タイトルマッチを日本で開催するには、ルールやレフェリーなどを監理・統制する中立公正なコミッションの存在が不可欠だった。

設立は白井さんの世界挑戦の1カ月前。現JBCの安河内剛事務局長は「白井さんは単に日本初の世界王者というだけではなく、ボクシングを娯楽から競技スポーツに変えた、今の日本のプロボクシングの礎をつくった特別な存在です。彼が登場していなければ、日本ボクシングの近代化はもっと遅れていたでしょう」と語る。

それにしてもカーン博士は、大勢のボクサーの中で、なぜ白井さんに目をつけたのか。その理由について51年3月17日付の毎日新聞で博士自身が語っている。言葉を抽出して記す。

「彼は完全なほどのナチュラル・タイミングを会得していた(中略)これはどんな瞬間でも体と神経がピタリと一致している結果として生ずるもので、持ち得たものは今まで幾人もいない。偉大なスピードと驚くほどの的確さと完全なバランス、さらにすさまじい打撃力を備えていた」

カーン博士のコメントを読んで、ハッとした。70年以上前の“白井評”が、そのまま現WBC、WBO世界スーパーバンタム級王者の井上尚弥(大橋)のボクシングと重なるからだ。

4階級制覇を達成し、アジア人初の4団体統一王者にもなった井上もまた、ナチュラル・タイミングの正確な強打とスピードで、日本ボクシング史を大きく前進させている。22年6月には日本人で初めて、全階級を通じて現役最強王者をランキングするパウンド・フォー・パウンド(PFP)の1位にも選出された。

12月26日、井上は2階級での4団体王座統一という新たな歴史に挑む。勝てば世界2人目の偉業となる。

くしくもこの日は、03年に80歳で天国のリングへと召された、白井義男さんの20回目の命日でもある。【首藤正徳】

◆白井義男(しらい・よしお)1923年(大12)11月23日、東京・荒川区三河島生まれ。43年(昭18)に拳道会に入門。戦前は8戦全勝。その直後に召集され海軍に入隊。終戦翌年の46年に現役復帰。49年1月に日本フライ級王座、同12月に同バンタム級王座を獲得。52年5月19日、世界フライ級王者ダド・マリノ(米国)を下して、日本人初の世界王者となり4度防衛。通算成績は50勝(22KO)9敗4分け9EX(エキシビション)。引退後は解説者・評論家として活躍。03年12月26日、肺炎で死去。享年80。

◆白井義男・生誕100年記念展示会 生誕日の11月23日に出身地の東京都荒川区南千住の荒川総合スポーツセンターで開催される。主催は日本ボクシングコミッション、後援は荒川区。現役時代のトランクスやガウン、シューズなどの記念の品々や、試合や練習風景を撮影した写真、16ミリフィルムで撮影された貴重な試合映像も流される。午前9時から午後6時まで。

(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「スポーツ百景」)

第一荒川高等小学校の1938年(昭13)の卒業アルバムの表紙(男10組に白井義男)
第一荒川高等小学校の1938年(昭13)の卒業アルバムの表紙(男10組に白井義男)
第一荒川高等小学校の1938年(昭13)の卒業アルバムの男10組の生徒名(最上段の左から3人目に白井義男の名前)
第一荒川高等小学校の1938年(昭13)の卒業アルバムの男10組の生徒名(最上段の左から3人目に白井義男の名前)