不要不急の活動は控えてくださいということが言われはじめて、もう1年になります。当初は「仕方ない、新型コロナウイルスのまん延を止めるためには」と活動を止めていた方も、1年たった今かなり苦しい思いをしています。もちろん経済的な苦しさが大きいわけですが、すでに経済的にはある程度豊かになり活動を1、2年自粛しても問題がない方々が相当に苦しそうにしている状況を見て仕事とは何かを考えさせられています。

当たり前ですが生活をしていく上で収入というのはとても大きな要素です。支出を上回るだけの収入があってはじめて人は安心することができます。ある程度の段階までは収入で幸福感は影響を受けるのだと思います。国家の力もGDPという国内で生産された量で測られます。

一方で経済的な収益を生み出すことと社会にとって価値があるということがずれているという感覚は、誰もが一度は覚えたことがあるのではないでしょうか。例えば経済的に苦しいご家庭の子どもたちをサポートする事業は間違いなく価値がありますが、受益者がその対価を多く支払うことができないために事業者は多くの収入を得ることができません。同じような価値を富裕層の子供に提供すれば十分な対価を得ることができます。また子供に対しての教育よりも金融に関わった方がもっと大きな収入を得ることができます。それはつまり収益の最大化は、社会的価値の最大化とは完全に一致しないということだと思います。

経済的な収益の最大化のみが仕事の目的ではないとしたら一体何がそれ以外の目的なのでしょうか。仕事を通じて提供する金銭以外の何か。受け取る金銭以外の何か。仕事を休まざるを得ない状況は、金銭はもちろんですが仕事を通じてやりとりされる何かが失われていることが苦しさの背景にあるように感じます。

震災後、被災地の子供たちに対し多くのアスリートがサポートをしていきました。本当に多くのサポートがあったと現地の方は言います。そのような活動が1年、2年と続き、一段落して落ち着いてきていた時に子供たちと話をする機会がありました。いろんな支援があった中で一番うれしかったことは何かと尋ねると意外なことにほとんどの子供たちは、選手たちがありがとうと言ってくれたことをあげました。ある子供は応援の手紙を書き、ある子供は鶴を折って選手を励ましました。それを渡した時に、選手がうれしそうに受け取って「ありがとう」と言ったことが一番子供たちはうれしかったのだそうです。

これはとても示唆的で、かつ私たちが深く考えなければならないことだと思います。人は本質的にもらうよりあげる方がうれしいということだと私は受け取りました。

仕事というのは2つの側面があると思われます。1つは収入を得るためのもの。これは先ほど申し上げました通り、ビジネスモデルやその時々の希少性などによって決まっていきます。もう1つは誰かに影響を与えることによって、社会とつながり、社会に貢献をし、社会から感謝や評価を得ているというものです。不要不急の活動を自粛してくださいということ、それ以外でも仕事をいったん中断してくださいということに対し、仮に経済的にサポートできても、この社会とつながっているという感覚は補えないということだと思います。

新型コロナウイルスが起こした恐ろしい出来事は、人々を社会から切り離してしまったことだと思います。国家も結局のところ壮大な共同幻想のようなもので、私たちが「私たち」という共同体意識を持っているからこそ、成立しているのだと思います。もしも、国の中であちら側とこちら側を分けてしまい、同じ船に乗っているという感覚を全く持たなくなったとしたらあらゆる前提が揺らいでしまうように思います。そうならないように私たちは常日頃、労働などを通じて社会に貢献し、自分はその一部として認められているという感覚を保っていたのではないでしょうか。

経済的に苦しい人たちへのサポートは最優先で行いつつ、仕事を通じて社会とつながることを断たれている中、なんとか「私たち」という共同体意識を保てないかと日々考えています。社会を信じる力が今問われているのではないでしょうか。

【為末大】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「為末大学」)