食べ残されたおかずを見て、優しく、心の中でつぶやく。

「そうだよね、いまは食べることできないよね」

声の主は横山寿美子さん(48)。生まれ育った新潟県妙高市池の平温泉の民宿「池廼家屋旅館」の経営に携わるようになり、15回目の夏を迎える。

夏の合宿で訪れ、過酷なメニューをこなす長距離ランナーたちの食事を下げる時、残念な気持ちではなく、大きな理解を持てる。

「昔の自分もそうだったよな」。

8歳から始めたクロスカントリースキーで、久しく世界舞台で戦ってきた。94年リレハンメルから4度の五輪、世界選手権出場は8度を数える。滑ることと走ること。競技は違うが、長い距離という共通点が、学生ランナーたちへのまなざしを温かくする。

「オリンピアンの宿」

父から引き継いだ宿の運営。そこがいまの仕事場だ


生家が旅館だった。

「あまり、悪いイメージはないんです。小さい時からスキー選手が合宿に来たり、防衛大学校の人が1月になるとスキーの実習でくるんですけど、そういうお兄ちゃんたちと仲良くなったり」

物心つく前から、お客さんは貴重な遊び相手だった。家族連れで同年齢くらいの子供がいると、意気投合して客室へ。そんな幼少期を送った。

父久雄さんも元選手で、指導者でトリノ五輪のコーチ兼ワックス技術者。1歳上の姉久美子さんも日本代表選手というスキー一家で育った。

「でも、小さい時はスポーツが苦手な子で、スポーツをやるような子ではなかったんです」

活発で、真っ先に誰よりも先に長靴を履いて外に行くのを心待ちにする姉とは真逆だった。

後に、当時の常連客の知人の指導者などから言われることになった。「お前がスキーをやるとは思わなかった」。1つのきっかけは「シャカシャカ」だった。

小学校2年生。インドア派の少女に驚きの結果が待っていた。小学校の授業くらいでしか経験がなかったクロスカントリースキーで地元の大会に父の一存で出場すると、1、2年生の部で2番になった。

「3月生まれで勉強も得意ではなかった。何をやっても駄目な子だったんですけど、2番になって賞品をもらったら、うれしくて」

当時の言い方ではヤッケ。今も色を鮮明に覚えている、紺と赤色のウインドブレーカーが人生を変えた。長靴の姉と同じくらい、アウトドア派に。室内で遊んでくれたから好きだった「お兄ちゃん、お姉ちゃん」の泊まり客は、雪原を一緒に走ってくれる貴重な存在になった。学校の練習にも毎日お弁当を持って参加。ぐんぐんと上達した。

「みなさんみたいな成績を出していないので」

謙虚に結果を振り返るが、長く日本のトップスキーヤーとしての飛躍する始まりだった。94年にはスキー発祥国のノルウェーで拓かれたリレハンメル大会で五輪初出場。19歳だった。隣県の長野開催の98年大会、前年の同時多発テロの影響が色濃く残った中で拓かれた02年ソルトレークシティー、そして五輪は最後と決めて臨んだ06年トリノ大会。160センチの小柄で、妙高から世界へと道を歩んでいった。


キャリア晩年のひょんな優しさが1つのきっかけになった。

「私が後を継ぐからお姉ちゃん、良いよ」

03年頃、姉がオーストリア人の男性と結婚することになり、同地での生活を希望していることがわかった。家族経営の宿の長女と次女。姉の背中を押す気持ちが大きく、真に引き継ぐ事を考えていたわけではなかった。現役生活も終盤戦。何となくの使命感と責任感と抱えながら、集大成のトリノ、そして翌07年に札幌で開かれた世界選手権で競技人生を完走。同年に自身も結婚したときには、宿の経営が次の道という気持ちも固まっていた。

「結婚して子供ができたので、まずは子育てでした。でも、徐々に厨房(ちゅうぼう)の中に入ったり、客室掃除など。やることはいっぱいあるので、一緒になってやるようになったんです」

現役中に拠点にしていた場所で、時間がある時は料理の後片付けなども手伝ってきた。“入社式”はない。子育てと家業の比率は、後者が大きくなる中で、自然に経営者としての顔になっていった。


スキーリゾートとして名高い妙高。夏場の旅行客はどうしても冬に比べれば少なかった。それが変わり始めたきっかけを作ってくれたのもスポーツだった。

いま、起伏に富む山あいの道路には、多くの選手が肩で息をしながら駆ける姿にあふれる。

8月中旬、池廼屋にも早大の陸上部員達が宿泊し、強化に励んでいた。

6月から監督を務める花田勝彦さんとの出合いが、ランナーたちの夏の風景を生んでいた。

「うちの姉が花田さんと一緒のところでトレーニングをしたりしていた時期があり、花田さんがこちらにきた時に『ここでこういうトレーニングができます』などをお伝えして。うちでも旅館をやっていると話した時に、宿泊をしてもらえればと。そういう流れがありました」。

2度目の五輪となるアテネ大会を終えた名ランナーの花田さんが、現役引退を決めて、上武大で監督として指導し始めたのが04年だった。夏の合宿地を探す中で横山さんの姉と縁が生まれ、いまでは旅館の経営者と宿泊者としなった交流も20年あまりになる。

「スキーに限らず、スポーツでつながって、合宿の方がきてくださるのはありがたいです。それに尽きます。うちの父がパラリンピックのスキー選手を見ていたこともあるんですけど、パラ関係の人も合宿にきてくれる。いろんなスポーツの方が来てくださるのは本当にありがたいですね」

アスリート目線での食事のリクエストなどをされると、現役時代さながらの向上心がうずき、嬉しく感じてしまう。そんな日常が幸せに思える。

そして、小さい頃の自分に重なる姿を見ることも、この上なく楽しい。

「長男は中学生で長距離をやってます。もっと小さい時は上武大のお兄ちゃんにかわいがってもらって、仲良くなった選手と2人で過ごしていたり。いまは(早大OBの)瀬古さんが合宿で教えにきてるよと伝えたんですけど『ふ~ん』みたいな感じでしたけどあ(笑い)。年代が違うのかなあ」

そんな姿も含めて、旅館ならでは、そしてスポーツならではの出合いが生まれていることが嬉しい。


最後に現役を終えた後のキャリアに悩むアスリートの後輩達への助言を聞いた。

「自分のやっているスポーツ、やってきたことが強みですよね。それをいろんなところに生かしてもらいたい。人によって、競技とは違ういろんな仕事に変わっていく人がいると思うので、まったく別世界に飛び込む方もいると思うけど、何かしらつながる部分はある。それを強みにしてもらいたいな」

スポーツ、長距離。そんな想像もしなかった縁に恵まれることもあるだろう。

今年の正月もいつもの楽しみがある。箱根駅伝で走る選手たちの姿をテレビ越しに見ることだ。その先には世界で活躍する選手が出てくるかも知れない。

「つながりを頂けて本当にありがたいですね」

優しい心で、これからも「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」を支え、応援する。

【阿部健吾】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)

長野五輪出場時の写真と記念品
長野五輪出場時の写真と記念品
「池廼家」に飾られる歴代のスキー板
「池廼家」に飾られる歴代のスキー板
「池廼家」の展示コーナーに飾られる記念品の数々
「池廼家」の展示コーナーに飾られる記念品の数々
「池廼家」の展示コーナーに飾られる記念の写真
「池廼家」の展示コーナーに飾られる記念の写真
「池廼家」の外観
「池廼家」の外観
「池廼家」の看板の横で給水するランナー
「池廼家」の看板の横で給水するランナー
2002年ソルトレークシティー五輪 女子距離30キロクラシカル 現役時代の横山寿美子さん
2002年ソルトレークシティー五輪 女子距離30キロクラシカル 現役時代の横山寿美子さん
1998年長野五輪 距離女子20キロリレー 日本10位 左から横山久美子、青木富美子、横山寿美子、大高友美
1998年長野五輪 距離女子20キロリレー 日本10位 左から横山久美子、青木富美子、横山寿美子、大高友美