アメリカンフットボールの日大新監督に、京大の水野弥一元監督(78)が浮上した。反則問題で内田正人監督(62)が辞任し、日大は19日から新たな指導者を公募していた。水野元監督は日大OBの推薦を受け、応募期限の28日までに応募したとみられる。4度日本一と実績は申し分ないが、日大の選考基準や真相究明と大学のカバナンス整備は不透明。今季出場資格停止処分が早期解除されるかは、依然として厳しい状況に変わりはない。

 

 いまだ混迷が続く日大に救世主が現れた。一部OBが5月末に「有志会」を立ち上げ、現役の支援の道を探ってきた。6月には現役、父母会とOBが一体で活動を確認し、さまざま再建策を練ってきた。最大の焦点が後任監督だったがサプライズが起きた。80年代のライバルだった水野元監督が名乗りを上げてくれた。

 当初はOBから候補をリストアップしていたが、内田前監督の体制から外された指導者が多い。本人たちも就任には否定的で、現在の指導者などの立場を簡単に離れるわけにもいかなかった。さらに日大は候補条件としてOBを除外してきた。

 そこで水野元監督に白羽の矢を立てたようだ。話し合う中で内外から推薦人も得たようで、本人も受諾したと思われる。16年から務める立大のシニアアドバイザー退任も了承されたという。

 水野元監督は京大卒業後に米留学をへて、74年から母校監督に就任した。76年には名門関学大から初勝利。83年には甲子園ボウル(現全日本大学選手権決勝)で日大6連覇を阻止し、ついに初の大学日本一に輝いた。甲子園ボウル6回、ライスボウル(日本選手権)で4回優勝。甲子園ボウルでは日大と5度対戦して3勝2敗のライバル時代もあった。

 00年には京都市教育委員となり、08年には委員長に就任している。素人軍団を日本一に育てた指導者としてだけでなく、教育者としての一面も持つ。日大はチームの抜本的改革、選手の自主性を求められていることもあり、願ってもない適任者と言える。

 日大広報部はこの日、「公募の状況や選考方法などは答えられない」に終始した。英文の募集要項も掲載し、米国人が複数応募しているとみられる。関東学生連盟からは選考委員や選考基準などが不透明とくぎを刺されたが、ここまでの独断的対応から水野元監督と言えども合格確実とは言えない。

 また、処分解除を決定する連盟は、再発防止や体制一新だけでなく、真相究明を第一に大学のガバナンス改善も求めている。現場の体制が整ったとしても、大学の状況が変わらなければ、処分解除が認められるかは厳しい状況にある。

 

 水野弥一(みずの・やいち)

 ◆パイロット断念 1940年(昭15)6月13日、京都市生まれ。戦闘機パイロットを目指して、西京高から防大に進み、勧誘されてフットボールを始める。腰痛でパイロットを断念で中退。

 ◆米留学で修行 61年に京大に入学してOLでプレー。65年に大学院へ進んでコーチとなる。68年にトヨタ自工に入社も71年に退社し、全米大学2部コロラド鉱山大に留学。73年に帰国し、74年に監督就任。

 ◆ライバル撃破 76年に関学大リーグ戦連勝を145で止める。82年にリーグ戦連続優勝を34で止め、甲子園ボウル(現全日本大学選手権決勝)に初出場を果たす。83年に甲子園ボウルで日大の6連覇阻止し、初の大学日本一となった。

 ◆引く手あまた 11年に監督を勇退したが、12年に追手門学院、14年には追手門大監督にも就任した。14年には世界大学選手権日本代表監督で準優勝。15年に日本殿堂入り。