1964年(昭39)10月23日午後9時1分、東京オリンピックの興奮はクライマックスに達した。14日目、女子バレーボール・リーグ最終戦(駒沢屋内球技場)は、日本がソ連を下してついに金メダル。この時の視聴率は85%(NHK調べ)にも達した。“東洋の魔女"たちが泣き崩れる中で、当時43歳の鬼監督・大松博文だけは、放心したようにじっと宙を見つめていた。日本のスポーツ史上、最も偉大な瞬間の一つに数えられる「金メダル・ポイント!」にドラマを導いた男の実像を、6回にわたって連載します。

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ジリジリとした緊迫感が場内に立ちこめていた。それを喚声で晴らそうというのか、場内は割れかえっていた。日本は第3セット、14―9と王手をかけたが、一矢報いようとするソ連の執念が、1点、また1点と追い上げてくる。エースのルイスカリにすべてを託して、ジリジリと差を詰めてきた。(翌10月24日付本紙1面から)

午後9時をすぎた。街の通りから、文字通り人が消えた。14―13。NHK鈴木文弥アナウンサーは「さあ日本、金メダル・ポイントです」を何度も何度も繰り返した。

【証言】荒木日出男(59=日刊スポーツ写真部)「サーブは宮本。ネット際の応酬からルイスカリが長身いっぱいにボールを打った時、ケトナ主審が左手を上げた。ソ連のオーバーネットだった。しかしその瞬間は何が起きたのか分からず、場内は耳が痛くなるほどシーンとして、生涯忘れられないような静寂があった。それから爆発した。私は2階席から夢中でシャッターを押し続けていた」。

7時37分にカメネクのサーブで試合は始まった。立ち上がりはソ連が優勢、しかし7―7で宮本のスパイクで追い付いた。15―11、15―8。時間差攻撃や、半田へのクイックが決まり始めた。第3セット終盤、河西のレシーブを周囲が譲り合い、ミスが出た。河西はしかった。「何してんのよ!」。それをベンチの大松は、いつものようにじっと動かず、見つめていた。

【証言】日刊スポーツ記者として取材した大村敏丸氏(57=現電波新聞)「勝った瞬間に、選手たちは抱き合って泣いた。大松さんはコーラをぐっと飲んだが、まだ泣かない。選手の第一声を確認するのは私の割り当てだった。選手たちはいったん退場した後、“センセイ、センセイ"と叫びながら大松さんに突進してきて、胴上げした。3回宙に上げて、下ろした時は大松さんも泣いていた。涙が光っていた。記者席もジンときて、先輩記者が“(感激で)もう原稿書けん"と叫びながら書いていた(笑い)」。

同じ日、柔道は無差別級をヘーシンク(オランダ)に奪われていた。NHKテレビの視聴率は85%に達した。復興の金メダルでもあった。日本(東京)は戦前、1940年(昭15)五輪の開催権を与えられていた。大戦が五輪を、物を、意欲を、生命を奪い去った。日本は廃虚から立ち上がり、五輪開幕直前の10月1日、新幹線が開業した。

スポーツ・ジャーナリズムの基幹、評論家の川本信正氏(87)は指摘する。

【証言】「バレーボールと柔道は、開催国日本が主張し、各国を説得して正式採用にこぎつけた競技だった。だからこそ、国際的な意味も大きかった。一方大松の根性論は、以後の日本のスポーツ界の科学的、合理的な進化を大きく阻む結果にもなった。古い体質の指導者層が、根性論の都合のいい部分だけを強調し、軍国的な精神主義を長く引きずることになったからだ。それほど強いインパクトを日本人に与えた出来事だった」。

アジア初の五輪は10月10日開会式。12日には重量挙げの三宅が世界新で優勝、21日にはアベベがマラソン2連勝を飾った。日本は選手団公約の15個を上回り、16個の金メダルを獲得したが、その後これを上回る成績は挙げていない。【特別取材班】(つづく)

◆東京オリンピック 1964年(昭39)10月10日から24日までの15日間にわたって行われた。第18回大会。東京は40年の第12回大会の開催都市に決定していたが、日本軍の中国侵攻と第2次大戦への突入により開催を返上した経緯がある。それだけに1兆800億円の「国策事業」 国際社会への復帰をスポーツを通じて強調したい国家の威信をかけ、「アジアで初めて」「世界はひとつ」の標語の下、日本は国策事業として取り組んだ。所得倍増・高度経済成長政策に大会を組み込み、競技施設のほか東海道新幹線などに1兆800億円もの経費を投資、海外各国を驚かせた。参加国はそれまでで最多の94カ国。開会式の模様は人工衛星で初めて宇宙中継された。女子バレーボールなどの活躍で16個の金メダルを得た。開会日の10月10日は66年から「体育の日」として国民の休日に指定された。

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