大松博文(ひろぶみ)の小学校時代のニックネームは「お嬢さん」だった。

父太平氏は香川県綾歌郡宇多津町の小学校校長、母フクさんは士族の娘で、長男として厳しく育てられた。兼業農家の塩田業者の子供たちが真っ黒になって遊ぶ中、大松だけは色も白く、「君、僕と遊ばない?」といった言葉遣いだった。

【証言】小、中学校時代の同級生、山本利夫氏(74) 「彼の運動神経は抜群だったが、都会の子供のようで、“お嬢、お嬢"とからかわれても、ニコニコ顔でケンカひとつしませんでした」。

小学校時代は野球が大好きで、長身の剛球投手として地元では注目を集めていた。父も一度は坂出商野球部入りを許可した。

【証言】弟の薫氏(71) 「行儀作法のうるさかった母は、家の中で大きな声を出しただけで、しかりつけるほどで、長男の兄には特に厳しかったんです。兄が坂出商の野球部に入部すると、“あんな蛮カラなスポーツは駄目"と強硬に反対し、強制的に退部させました。でも、兄はそれを我慢しましたね」。

後年、大松がバレーボールの名将として帰郷した時、父親に、「あのまま野球をやっていたら、今ごろ野球の監督として成功していたかもしれないよ。どうしてやらせなかったのかなあ」と笑いながらも抗議したという。

3年生の校内バレーボール大会で活躍したのを認められたのがバレーボール部入部のきっかけだった。

1936年(昭11)8月11日の深夜、ドイツ・ベルリンでは前畑(兵藤)秀子選手(95年=平7=没)が女子平泳ぎ二百メートル決勝で日本女子初の五輪金メダルを手にした。坂出商バレーボール部は夏合宿の最中だった。大松らは合宿所を抜け出し、近くのラジオ店の店先で、ラジオ放送にかじりついた。雑音まじりの、NHK河西三省アナウンサーの「前畑頑張れ」の実況放送に、胸を躍らせた。

【証言】坂出商バレーボール部と日紡での後輩、吉田数正氏(73) 「切れぎれの放送でしたが、みんな興奮して聞き入りました。大松さんも“すごいなあ"と目を丸くしていました。しかし、まさかその彼が28年後に、前畑さん以来の金メダル(女子)を手にするとは思いませんでした」。

【証言】川崎安夫氏(77=元日紡バレーボール部部長) 「商業高校からは就職が一般的でしたが、大松の父君を口説いて、関学大への進学を勧めました。粘り強い性格だったので、大成するとは思っていましたが、指導者としてあれほどやってくれるとは考えもしませんでした」。

関学大時代、英語が不得手で退学し、家の事情で皮肉にも米国に移住した先輩がいた。ところが翌年、その先輩から流ちょうな英文の手紙が届く。「やれば、できる」のは、その時の発見であり、後の生き方にも強く影響した。大松はわざわざ左利きに挑戦し、ハシを持つことから始め、ついには左でも字を書けるようになった。

しかし、関学大を卒業し日紡に入社した年に召集されたが、出征時の写真には白面の好青年しか写っていない。“鬼"のかけらもまだなかった。

【証言】 山本氏 「あっと驚いたのは、大松が戦地から帰ってきた時でした」。【特別取材班】(つづく)

◆大松博文(だいまつ・ひろぶみ) 1921年(大10)2月12日、香川県綾歌郡宇多津町生まれ。バレーボールは坂出商3年から始めた。関学大高商部卒、41年(昭16)に日紡入社。第2次大戦で召集され復員後、53年(昭28)から日紡貝塚(女子)監督に正式就任。猛練習と回転レシーブで世界の注目を集め、チームは“東洋の魔女"と呼ばれた。62年の世界選手権でソ連を破って世界一に。2年後の東京五輪でも金メダル。「おれについてこい」や「根性」は流行語になった。65年にニチボーを退社して電通へ。68年参議院全国区(自民)に当選した。78年11月24日、ママさんバレーの指導先の岡山県井原市で、心筋こうそくで57年の生涯を終えた。

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