体操男子で五輪の個人総合2連覇した内村航平(33=ジョイカル)の現役引退が11日に発表された。五輪、世界選手権で計28個のメダル獲得など伝説を残してきた。内村の「すごさ」を振り返る。

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どんなに回っても、どんなにひねっても、着地は微動だにしなかった。内村は笑いながら「どんな体勢になっても、いつも地面が見えている」とけろりとしていた。着地の減点幅が大きくなる規則改正がなされると、まったく着地の足は動かなくなった。超人、いやまるでマンガの世界だった。

11年9月の全日本社会人選手権の個人総合で、右足首のけがで、2種目を欠場。67位に終わった。内村が個人総合で優勝を逃したイメージがなかった。10月には東京で世界選手権があったため、内村の全成績を細かく調べてみた。それまで、内村の全成績の記録は、どこにもなかった。

その時点で、6種目を演技した個人総合では16連勝、3年ほど負けなしが分かった。敗れたのは、08年全日本学生で2位になったのが最後だった。その後も連勝は伸び続け、約9年間、負け知らず。18年全日本で3位に終わるまで、連勝は40に伸びた。

11年10月の世界選手権。種目別床運動の決勝だった。冒頭のG難度の大技リ・ジョンソン(後方抱え込み2回宙返り3回ひねり)で、とんでもないことが起きた。最後の3回ひねりが高速すぎて、審判が2回ひねりと誤審した。代表コーチの抗議で訂正されたが、専門家の審判でも肉眼では追いつけない強さは異次元だった。

父和久さんの言葉を思い出す。長崎・諫早中3年の時、東京の朝日生命体操クラブに出稽古に行った。帰ってくると、コバチやコールマンの離れ技を見よう見まねで演技した。その時を思い出し、和久さんは「あの年齢で大技が怖くないと言うんです。その感覚に背筋が寒くなった」と身震いした。和久さんは、高校総体床運動優勝の経験を持つ。親でさえ、末恐ろしさを感じた息子の強さだった。

12年ロンドン五輪を前に、報道陣への対応も大きく変わった。スポーツ紙という性質上、硬い話ばかりでは困る。しかし、08年北京五輪前後には、柔らかい話を引き出すのに苦労した。体操の話でさえ、答えは一言二言。最初に柔らかい質問などすれば、ほとんど無視状態だった。15分ほど演技や採点の話を続け、ようやくこなれたところで、柔らかな話に移行した。

それが、ロンドン五輪前には、自ら話を軟らかな話題に振ることも増えた。何しろ、答えが長くなり、弁も立った。「なぜ変わったのか」と一度、聞いたことがある。答えは「自分が引っ張っていかなくてはいけないと。体操と言えば内村航平という自覚からかな」と、照れながら苦笑いだった。

内村が言い続けてきた言葉がある。「6種目をやって初めて体操」。しかし、それを覆し、鉄棒1種目だけに懸けて出場した東京オリンピック。そして落下した。このとき、最後を悟ったのかもしれない。しかし、最後はどんな形でも、「体操と言えば内村航平」だった。