フィギュアスケート男子の冬季五輪2連覇王者、羽生結弦さん(27)が19日にプロ転向を正式表明し、競技会の第一線から退く決断を下した。「羽生結弦の軌跡」とし、フィギュアスケート史に金字塔を打ち立ててきた羽生さんの挑戦の歴史を連載で振り返る。第1回はずっと寄り添ってきた東日本大震災を巡る思い。

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ぽつんと立っていた彼を見つけたので、気楽に声をかけて近況を聞いた。そのときの会話を今でも覚えている。

2012年8月下旬に都内で行われた上月スポーツ賞の表彰式会場。当時はメダルラッシュとなったロンドン五輪が終わったばかりで、周囲の関心の多くは夏の競技の選手たちに向けられていた。そのときの肩書は世界選手権銅メダリスト。今では考えられないことだが、周りにはあまり人が群がっていなかった。

ブライアン・オーサー氏に習うため、その年の夏前から拠点をカナダに移したばかりだった。日本を離れ、異国での初めての生活ぶりを尋ねると、首を横に振っておちゃめに言った。

「もう帰りたいです。英語も全然なんで」

もちろん、全てが本心ではなかっただろうが、戸惑っている姿は見て取れた。「楽しいことは?」と聞いても、思案してから「ないなぁ…」と。ただ、そんな苦笑いの後にこう続けた。

「でも(期待に)応えたいです。『応えなきゃ』じゃなくて『応えたい』とすごく思えるようになりました。あ、前向きっちゃ、前向きか」

シニアデビューを締めくくる11年2月の4大陸選手権(台湾)で準優勝に立ちあえた。「2週間後に高校のテストがあるので、帰ったらマジで勉強しないと」というのが別れ際の言葉。それから1カ月もたたない3月11日、東日本大震災が起こった。

当時、彼は地元仙台市のリンク場にいた。スケート靴を履いたまま避難したこと、練習拠点を失い、全国各地を転々としながら出演した60ほどのアイスショーを「練習代わり」としたことは有名な話。誤解を恐れずにいえば、ここから選手として、変わっていった。まずは心から。それが技と体へとつながっていった。シーズン再開後に出会うと、そう強く感じた。

当たり前だった風景を失い、自宅にも帰れない日々を簡単には想像できない。その経験を「つらいところはありました。基本はホテル暮らしで、ふるさとじゃないので親しい人もなかなかいない。ストレスは少したまっていました」と素直に打ち明けてくれた。

ただ、そうした苦労、暗闇の中に少しでも光を見つけ出し、自分の中に落とし込むことができるのも彼の能力なのだろう。

「環境の変化が気にならなくなったのがありますね。昔はホテルで全然寝られなかったけど、今はぐっすり。どこでも住める気がする」

なによりも、心を強くしてくれる出来事を経験したと、教えてくれた。

「震災後初めてのアイスショーで神戸のチャリティーに呼ばれて、自分が演技をしたときに、本当に多くの方々が立って応援してくださったし、感動して涙を流してくださる方々がたくさんいらっしゃった。それを見たとき『自分はもっと頑張っていいんだな』って思えました。必要とされているんだという気が、ちょっとしたんです。自分のスケートが必要とされていれば、もっと頑張れる。今までも感じられたことだけど、劇的に感じたのは神戸のショーの後でした」

悲惨なことはない方がいいに決まっている。被災しなくとも、彼の人生は同じ道を歩んでいたのだろう。ただ、東日本大震災は起きてしまった。そこから得た経験を漏らさず受け止め、力へと変化させた。

「いろんな人に見られてもだいぶプレッシャーを感じなくなった」

「ショーを続けていくことで大事なことができるようになってきた」

言葉にするのは簡単だが、なかなか実行できることではない。この出来事が、16歳だった少年をより強く、ひと足もふた足も早くたくましいものに加速させていった。今振り返ると、そう感じる。だからあの時、駆られた使命感や焦りにも聞こえる「(期待に)応えなきゃ」ではなくて、自らの心から発している「応えたい」という言葉につながったのだろう。

震災の瞬間、スケート靴を履いたまま避難した、そのときの状況も教えてもらったことがある。そこに、彼にとってのスケートが込められている気がした。

「靴履きっぱなしは結構大変でした。やっぱり命を守らなきゃいけない。ですけど、自分の中で靴も守らなきゃいけないっていう意識があったんです。当然立てないから、ハイハイ状態で四つんばいになって、なるべく膝だけで歩く感じでしたね。靴を傷つけないように」

「その靴は大切に保存してあります。家の倉庫に『今までありがとう』って書いて。普段も終わった靴は取っておく方ですが、そこまで思いを込めてしまったのは、これまでとは格別だったと思います」

【今村健人=04~07、10~12年担当】