フィギュアスケート男子の冬季オリンピック(五輪)2連覇王者、羽生結弦さん(27)が19日にプロ転向を正式表明し、競技会の第一線から退く決断を下した。「羽生結弦の軌跡」とし、フィギュアスケート史に金字塔を打ち立ててきた羽生さんの挑戦の歴史を連載で振り返る。

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「小さい時から平昌でと決めていた。(14年の)ソチで取って、(18年の)平昌で取って終わり。そこからプロをやろうと決めていました。まだベストな状態のときにプロスケーターとしてありたいな、と。落ちてきて、落ちてきて、できなくなって引退してプロになるのではなく、やっぱりプロだったらプロとしての仕事がある」

15年8月、練習拠点のカナダ・トロントのクリケットクラブで、羽生結弦は未来像をハキハキと語ってくれた。「プロ」という概念自体への意欲的な挑戦を具体的に描く姿には、驚きもあった。

10代半ばごろから、平昌で競技者生活を終える考えを示してはいた。カナダでのオフシーズン。その意向をあらためて聞いた形だが、「平昌で最後」という報道が出れば、大きな話題になることは必至だった。「ニュースが出ると大きな反響があると思います。大丈夫ですか?」。慎重に確認した報道陣に「大丈夫です。そう決めてますから」と晴れやかに返した姿を覚えている。

それから7年、19日の記者会見で言った。

「そもそも平昌五輪の時に引退しようと思っていて、引退という言葉はあんまり好きではないですが、ぼくが16、17の時のインタビューで『2連覇した時にどうするんですか?』って聞かれて、ここからがスタートですと心から言える時があって。今そういう気持ちです」

信念はみじんもぶれていなかった。

7年前の記事は「羽生結弦『平昌で終わり』の後は金の伝道師になる」という記事にまとめた。それは、この言葉があったから。

「コーチをしたいなという気持ちはなくなってきたのかな。枠組みにあまりとらわれたくない。できるなら、講師がいいな。スケート以外でいろんなことをしたい。メンタルの話だとか、練習環境なども勉強しているし、できると思います」

他競技、スポーツを問わずに講師役をしてほしい。そんな期待を込めた。

プロに転向し、当面は4回転半も含めた自身の挑戦の時間が主になるだろう。ただ、きっとこの時に語った「(他の人を)サポートしたい」という気持ちも、ぶれずに持っていると思う。どんなことを伝えるのか。その活動にも注目したい。(敬称略)【阿部健吾=11~16、18年~現担当】