フィギュアスケートのアイスダンスで世界選手権日本勢最高タイ11位と躍進した村元哉中(30)高橋大輔(37)組(関大KFSC)が1日、現役引退を表明した。

2人のインスタグラムで明かし、2日に記者会見を開くと発表した。シングルで10年バンクーバー五輪銅メダルの高橋は14年に引退し、18年に現役復帰。2季活躍後、18年平昌五輪代表の村元の誘いを受けて20年にアイスダンスへ転向した。「かなだい」として3季を駆け抜け、フィギュア界に多大な功績を残した。

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5年前、村元は引退を覚悟していた。18年平昌五輪シーズンを終え、クリス・リードさんとカップル解消。拠点の米国から地元兵庫に戻った。9月、京都・舞鶴港からフェリーに乗り、両親と約1週間をかけて、バイクで北海道をめぐった。「もし、哉中がスケートを続けたいなら、また新しい人を探したらいいんじゃない?」。その一言で決断は先延ばしになっていた。

運命が動いたのは4カ月後だった。19年1月、ダンスパフォーマンスの公演に足を運ぶと、偶然、舞台に高橋が立っていた。10年バンクーバー五輪銅メダル、世界選手権優勝を飾った関大の先輩は、そのシーズンに現役復帰。村元は衝動的に動いた。元競技者の姉小月さん(32)に高橋の連絡先を聞き「アイスダンスのことで…」とメッセージを入れた。本心は「まさか組めると思っていなかった」というアプローチだった。

試験的に組むまで半年を要した。同年3月に33歳となった高橋は迷っていた。「やれるならやりたいけれど、哉中ちゃんなら僕よりもっと上手な人、有名な選手と組めると思っていた」。1度目の引退は14年ソチ五輪シーズン後。右膝は悲鳴を上げ、不完全燃焼だった。「最後のチャンスだと思った。失敗したら『ごめんなさい』となればいい」。9月にアイスダンス転向を発表し、20年から「かなだい」として歩み始めた。

一筋縄ではいかなかった。目標は結成2季目に迎える22年北京五輪出場。切符は1枚だった。20年2月に拠点の米国で本格始動したが、直後に新型コロナウイルスが世界的に拡大。一時帰国を余儀なくされた。再渡米後にはリフトを作り上げる最中に高橋の肋骨(ろっこつ)にひびが入った。約1カ月後に復帰すると、今度はスピン練習中に村元が転倒して脳振とう。2人でそろって滑れない時期が2カ月に及んだ。それでも自ら内情は明かさず、村元はのちに「お互いが探り探り。大ちゃんも怖かったと思います」と振り返った。

勝負の2季目。全てを懸けた21年12月の全日本選手権ではリズムダンスで転倒し、1位と1・86点差の2位で五輪切符を逃した。2人で熟考し、現役続行を決めた今季。悲願の全日本初優勝を飾ると、さいたまスーパーアリーナで行われた世界選手権で11位と躍進した。フリーダンスは「オペラ座の怪人」。終盤のステップで「いける!」と視線を交わし、ミスなく演技を終えて抱き合った。「やっとできた! ありがとう!」。追い求めてきた作品は、ここで完成した。

高橋 今シーズンをもって、競技生活から引退することを決断いたしました。

村元 2人でいろいろ話し合って決めたことなんですが、明日、記者の皆さまには記者会見を開きます。

5月1日、午後5時。2人はインスタグラムに動画を投稿し、自らの言葉でファンに現役引退を表明した。「かなだい」の存在でアイスダンスを知り、その魅力を感じた人が多くいる。運命に導かれ、強い志で進んだ村元と高橋が競技会に別れを告げた。【松本航】