甲子園には春1回、夏3回出場し、2年夏には準決勝まで進んだ。迎えた3年夏。2回戦の明徳義塾(高知)戦で、松井氏が受けた「5打席連続敬遠」は、日本高野連が異例の声明を発表しただけでなく、直後の国会でも話題となるなど社会問題にまで発展した。

92年夏の甲子園 明徳義塾戦でこの日5回目の敬遠を受ける松井
92年夏の甲子園 明徳義塾戦でこの日5回目の敬遠を受ける松井

 「あの時は悔しかったけど、あとで振り返ると5打席連続敬遠は僕を成長させてくれた。敬遠される存在になったということを証明してくれたからね。あれは、その後の野球人生にとってプラスになったと思います」

 今となればサバサバと振り返る。5敬遠も、高校通算打率4割5分、60本塁打も、過去の出来事にすぎなかった。

92年夏2回戦星稜対明徳義塾スコア
92年夏2回戦星稜対明徳義塾スコア

 「中学の練習も厳しかったけど、高校の仲間とは一緒にいる時間が全然違いましたからね。結局、今でも思い出として残っているのは、野球部の仲間の顔なんですよね。チームメートと過ごした時間、それが一番の財産です。ああいう濃密な時間を過ごしましたから、つながりが続いているんです。今では、それぞれ家族があったりして、なかなか全員は集まれないですけどね」

 プロ入り後は、松井氏が年末年始を利用して帰省するたびに、野球部の同期が集まり、石川県内の温泉で同窓会を開いてきた。メジャー入り後は「定期開催」ではなくなったが、都合がつく友人で集まることは欠かしていない。多感な高校時代。理不尽な大人や社会にあらがいたくなる気持ちを抑え、甲子園という同じ目標に向かっていた仲間は、松井氏にとって今もなお、かけがえのない「財産」なのだ。

 「あの熱さ、情熱があったからでしょうね。あれはあの年代だけしか出せないものです。プロ野球選手になっても、あの熱さは毎日出せない。高校野球は、毎日が『10・8』(94年、公式戦最終戦が優勝決定戦となった巨人―中日戦)みたいなものですからね。だからこその仲間だし、あの熱さがあったからこそだと思います。僕らは寮じゃなかったけど、朝から晩まで一緒にいました。しかも、みんな同じような田舎から集まってましたから、まとまりが強かったのかもしれません。高校野球は3年間しかないし、負けたら終わり。すべてが凝縮されてますからね。あの熱さで野球をやることは、後にも先にも、もうあり得ないですから」

 だからこそ、松井氏は高校野球の将来、さらに少子化などに伴う野球人口の減少を真剣に心配している。

 「甲子園は日本の野球文化であって、完全に春夏の季節の風物詩。あれだけ国民に根付いているのはすごいし、日本の野球文化を支えている大きなものだと思います。それは、もう間違いないことです。なぜかというと、あそこには選手たちのドラマの続きがあるから。プロに進んでスターになった選手にしても、アマチュアからのストーリーがあるし、ずっとつながっているんです。つまり、甲子園、高校野球は、ストーリーの始まりなんですね。それは非常に大きいものですし、これからも絶対に続いて欲しいものです」

 自らの思い出から高校野球の将来へと、話題が移るにつれ、松井氏の口調は熱気を帯びた。今、高校生に何を伝えたいのだろうか。(つづく)