西武秋山翔吾外野手(27)がヒットメーカーの代名詞でもあるシーズン200安打を達成した。
ボロボロにはげ上がった青畳があった。八戸大(現八戸学院大)の選手寮「飛天寮」。畳が敷き詰められた大広間のミーティングルームが舞台だった。大学時代の秋山は夕食後、日課のように消灯時間の午後11時近くまで素振りを繰り返した。畳の上での素振り。巨人時代の若き日の松井秀喜をほうふつさせる光景。ヒットメーカーの土台は名もなき時代の努力によって形成された。
ルーツをたどる。意外にも「持っていない」という声が多く聞かれる。横浜創学館の森田誠一監督は一番印象に残る出来事に3年の春季大会で同年センバツ優勝の横浜高との対戦を挙げる。「試合途中までリードしていた。だけど、秋山が守備で浅いライナーに突っ込んだ時に手首を負傷して、そのまま救急車に運ばれて交代した。結局、逆転負け。秋山がいれば勝てた試合だった」と振り返る。
八戸大で当時コーチだった正村公弘監督も快音の思い出は少ない。「試合になると打たない。だからベンチから監督と僕とで『試合で打てよ!』とずっとヤジっていた。秋山は『何でヤジられるの?』と2度見していた」と苦笑いする。
だが勤勉さこそが才能と2人は声をそろえる。森田監督は「こっちがストップをかけるまで練習する」と言い、正村監督も「プロ入り後もOB会で集まっても早めに来てランニングをしていた」と後ろ姿を見ている。線の細かった球児に成長を疑問視する声もあったが森田監督は分かったことがある。「非力だけどバランスが良かった。こういう子を鍛えると3年でこんなに伸びる。指導者として選手を見る教訓になった」。
秋山の卒業までには畳のイグサはめくれ、老朽化が進んだ。卒業後に楽天塩見らと約150万円を寄付して、大広間を一新した。今、秋山のような成功を夢見る選手たちがはだしで畳を踏み締めている。【広重竜太郎】



