広島黒田博樹投手(41)が23日、日米通算200勝を達成した。

 巨人、ヤンキースなどで活躍した松井秀喜氏(42=ヤンキースGM特別アドバイザー)が、黒田の日米通算200勝を祝福した。同学年でもあり、かつては「巨人の4番」「広島のエース」として、数々の名勝負を繰り広げてきた間柄。メジャーでの対決こそ実現しなかったものの、同じヤンキースのユニホームに袖を通すなど、同志としての意識も高い。松井氏にとって、互いに尊敬し合う黒田は、どんな存在だったのか。節目の200勝を機に、ライバル黒田への思いを語った。

 積み重ねた「200」という数字だけに目を向けないところが、松井氏ならではだった。自らは12年を最後に引退。だからこそ不惑を超えた今もなお、先発の柱として第一線で投げ続ける黒田に対し、尊敬の念を隠さなかった。

 「まだまだ現役バリバリで、41歳になってもプロのレベルでやっている事実が何よりもすごい。プロ入り直後から誰よりもいい球を投げて、今でも投げられているのは、体の強さのおかげなんでしょう。カープには若くていい投手がたくさんいましたが、壊れなかったのは黒田くらい。努力も含め、彼にはその強さがあったんでしょうね」

 プロでは2人とも日米球界で活躍した大スターだが、高校時代に歩んだ道は異なる。松井氏は星稜高の大砲として早くから「全国区」だったが、上宮高の黒田はほぼ無名だった。だが、松井氏は当時から黒田の名を知っていたという。

 「(92年)センバツに出る予定だった上宮に、球の速い投手がいると聞いてました。結局、不祥事で出られなかったんですが、その投手が黒田でした」

 高校時代は接点がないまま、松井氏は巨人に入り、黒田は専大へ進学した。2人の初対戦は97年4月25日、東京ドームで実現した。 「三振したのをよく覚えてます。彼のプロ入り初奪三振ですよね」

 既に巨人の主軸となっていた松井氏には、単なる新人投手との対戦だったかもしれない。だが、黒田には特別な意味があった。「松井を打ち取りたい」。同学年のスラッガーへの思いが、向上心の根幹となった。その意識は、次第に松井氏にも届いていった。松井氏にも、黒田の存在が大きくなっていった。

 「意識はすごくありましたね。逃げる感じが全くなく、マウンドからどんどん向かってくる感じだった。黒田ぐらいでしたね、速球とフォークだけでガンガン投げてくるのは…。当時、僕には四球でもいい、という投手が多かったけど、彼にそういうところは一切なかったですから」

 通算成績は打率3割1分3厘、6本塁打、16三振。松井氏は、黒田から通算300号本塁打を放った。一方で三振も多かった。ファンを魅了する力と力の好勝負だった。

 メジャーでの対決は実現しなかったが、ともにヤ軍のピンストライプのユニホームに袖を通した。「同志」という思いは強まった。

 「ケガをせず、めったに試合を壊さない。不思議と援護に恵まれないのに、200勝するんだからすごい(笑い)。おとこ気かどうかは分からないけど、野球に対して、正直に愚直に向き合ってきた感じがします。曲がったことが嫌いだから、今でも続けられているんだと思います」

 将来的には、互いに指導者として、再び相まみえる可能性もある。「そればかりはね…」。やんわり言葉を濁した松井氏だが、その瞬間だけ笑みが消えた。正直、愚直、曲がったことが嫌い…。野球観など共通点を感じられるライバル。黒田の偉業を祝福する松井氏の視線は、心なしか「この先」を見ているかのようだった。【四竈衛】

 ◆松井氏と黒田 巨人時代の97~02年に通算78打席対戦。67打数21安打(打率3割1分3厘)、6本塁打を放った。00年9月6日(東京ドーム)にはサヨナラを含む1試合2発。初のシーズン50本塁打をマークした02年にも2本打った。大リーグでは08~12年の5シーズン、同時期にプレーしたが、対戦はなかった。

 ◆黒田が最後に巨人松井と対戦したのは02年9月7日。1点リードの8回2死一塁。4回に2ランを浴びた宿敵に対し、直球で空振り2つ。そこから、決め球のフォーク2球、直球3球をファウルされた。フルカウントからラストは11球目、抜けたフォークで見逃し三振に仕留めた。「同い年ですごい打者がいる。それが僕の励みにもなる」と27歳の黒田は話した。