今場所、実に3度目だった。中入り後の幕内の全取組で懸賞旗が回ったのは。

 初めて幕内全取組に懸賞を懸けたのは、62年秋場所初日の「岡村製作所」。以来、幾度となくあったが、最近では珍しい。12年夏場所の初日と、翌名古屋場所千秋楽に、タマホーム1社が「大相撲を応援する」という形で全取組に懸けた2例があり、それ以来だ。ただ、複数社を伴う形では、92年名古屋場所以降なかった。

 皮肉にも、休場者が多く出て幕内の取組数が減ったことが要因の1つ。ただ、3横綱と2大関、そして人気者の宇良が休場しても、取りやめる企業は多くなかった。朝乃山には、師匠の高砂親方(元大関朝潮)の現役時代から親交がある東京バスが懸賞を復活させた。九重部屋の4力士にそれぞれ、15日間通して別々の企業から懸賞が懸かる形も例がない。色とりどりの懸賞旗は、上位陣の休場で寂しかった土俵の、にぎやかしになっている。

 そして、優勝争いが混沌(こんとん)とし、14日目の取組前まで5敗までの16人に優勝の可能性があったことを考えれば、懸賞が広く懸かることは良かったともいえる。それもまた、皮肉な話だが。【今村健人】