2つ目の頂を極めた。12年ロンドン五輪金メダリストでWBA世界ミドル級1位村田諒太(31=帝拳)が王者アッサン・エンダム(33=フランス)を7回終了時の棄権によるTKOで下した。主要4団体のミドル級では、最速14戦目での王座奪取。5月の王座決定戦では不可解な判定で敗れた相手に雪辱した。日本人では竹原慎二以来2人目の同級王者、さらに五輪メダリストとして初の世界王者にも輝いた。

 あふれるものは、止められなかった。「泣いてません」。勝利者インタビューでおどけても、その涙は恐怖に打ち勝った者しか流せない勲章だった。村田は目を真っ赤にしてリング上から叫んだ。「ありがとう!!」。拳を振り回し、五輪でも見せなかった姿。「みんなで作った勝利です!」。夢じゃないと何度も確かめた。最後は笑顔が咲いた。

 序盤から攻めた。顔から左ガードを離すことを恐れずに、左ボディーを見舞った。鉄壁のガード、前に出続ける勇気、そして強打。距離をつぶすことで右ストレートを封じようとするエンダムを突き放す。「4回からぜーぜーしていた。チャージし続けた」。自信をまとった拳を顔に腹に。鈍い音を響かせた。そして、7回で心を折った。

 「あの涙は男として良かったんだろうか」。5月には違う涙に悔恨があった。敗戦後の控室、20分以上泣いた。周囲への申し訳なさだったが「女々しかった。許しを乞うているみたいで」。自分を許せなかった。

 「ボクサーは辞め時を探している」とも言った心境から、先を考えられたのは、その周囲の声だった。「試合の夜にも数百件の連絡をもらい、90%以上は味方だった。助けられた」。再戦への道が開けた6月、現役続行会見で臨席した田中トレーナーが言った。「村田に申し訳ない。タイトルを取れなかったのは、セコンドが勝ちを確信してしまったから」。終盤、倒しにいく指示はなかった。ただ、痛感した。「僕の負けはチームの負けになる」。敗戦の責は自分にある。雪辱の覚悟を背負い込んだ。

 その頃、再戦に向け注目度は急上昇した。自ら半信半疑だった実力も初戦で自信を得た。「認められたという楽さがあった。『オレを見て』としなくてすむようになった」。3人兄弟の末っ子。関心を引こうと父誠二さんにパンチした幼少期から変わらぬ本性。不登校がちだった中学時代は突然金髪にしたり、マラソン大会に飛び入りして優勝、周囲をあぜんとさせた。もがき、居場所を求めてきた。

 「チャンピオン」と呼ばれることにもいらついたこともあった。「『違う、まだですよ』と言い直すのが嫌だった。情けない」。軽量級とミドル級では動くお金も1桁違う。最も層が厚い階級で戦う苦境は理解されない。だが、そう嘆く姿は、この5カ月間にはなかった。「世間でここに存在して良い、と認められた」。味方の存在が満たしてくれた。虚勢も消えた。

 五輪は夢見心地。手にしたベルトは「現実味がある。責任がある」。それは勝ち続けることでしか晴らせない使命だ。「ミドル級には4団体あり、僕より強い王者がいる。そこを目指す」。ここは終わりではない。始まりだ。【阿部健吾】

 ◆ミドル級戦線 君臨するのは3団体(WBAスーパー、WBC、IBF)統一王者ゴロフキン。10年にWBAベルトを獲得すると、KO街道で米国でもスターとなった。WBO王者サンダースは12月に元IBF王者レミューと3度目の防衛戦を行う。他有力選手では、9月にゴロフキンと「ミドル級頂上決戦」で引き分けた元2階級王者アルバレス、WBAを4度防衛したジェイコブス、7月のWBC挑戦者決定戦勝者で元IBFスーパーウエルター級王者チャーロらがひしめく。

<村田諒太アラカルト>

 ◆生まれ 1986年(昭61)1月12日、奈良市生まれ。

 ◆中学でジムへ 中学3年時に大阪・進光ジムに通い、日本スーパーライト級王座を10度防衛した桑田弘に素質を見込まれ、南京都高(現京都広学館高)を勧められて進学。高校で5冠を達成した。

 ◆アマ 東洋大に進学し、04年全日本選手権ミドル級で優勝。大学卒業後、東洋大職員となり、08年に一時引退も09年春に復帰し国内13冠に。11年世界選手権で銀、12年ロンドン五輪で日本人48年ぶり金メダル。

 ◆プロ 13年8月にプロデビューし、当時の東洋太平洋ミドル級王者・柴田明雄に2回TKO勝ち。

 ◆趣味 読書と子育て。選択する本のジャンルは哲学的なものを中心に多岐にわたる。

 ◆家族 佳子夫人と1男1女。

 ◆タイプ 身長182センチの右ボクサーファイター。