オオカミのような、ぎらついた目で、相手をにらみつけた。ウルフ、と呼ばれた。千代の富士(現九重親方)は目で倒した。目で、ファンの心をつかんだ。連日ギャルが部屋へ押し掛け、フィーバーを起こした。1981年(昭56)初優勝時の体重116キロは、幕内で2番目の軽さだったが、全身を筋肉と闘志で固めた千代の富士が、次々に巨漢力士を倒すシーンは、日本人の心を熱くした。前人未到の通算1045勝。国民栄誉賞を受けた猛攻の半生を、4回連載します。

 憎らしいほど、北の湖は強かった。それを倒すやつが現れた。

 証言 陣幕親方(53=当時の九重親方、元横綱北の富士) 「小さいものが大きいものを倒すのが相撲のだいご味、スカッとさせた。日露戦争で日本がロシアに勝って大喜びしたように、日本人は判官びいき。千代の富士はそれを土俵で実践したんだ」。

 1981年(昭56)初場所千秋楽。千代の富士は14勝1敗同士で、横綱北の湖に挑んだ。相手は優勝20回、体重も50キロ上の166キロ、対戦成績は1勝8敗だった。しかし時代の入れ替わりのドラマはこの時起きた。優勝決定戦で千代の富士が右上手を引き、頭も付けて上手出し投げを放つと、北の湖はヒザから崩れた。前に出るようにしての強い投げだった。

 証言 北の湖親方 「まわしを引き付けられて、体が浮いた。後はたたきつけられるように右ヒザから落ちたと思う。完敗だった」。

 瞬間視聴率65・3%。それまで最高の貴ノ花-北の湖戦(75年秋場所千秋楽)の45・7%を上回った。江戸川区春江町の部屋前では3万人が優勝パレードを待った。

 証言 3階の窓から紙吹雪をまいた、当時三段目の元横綱北勝海(32=現八角親方) 「人波で、車は部屋の手前200メートルで動けなくなり、千代の富士関は車から降りて歩いた。足袋は真っ黒、紋付きのヒモは引きちぎられる、着物のそでは破れる。ボロボロになって帰ってきた」。

 大関昇進、フィーバーが始まった。連日30人以上のギャルが部屋に押し掛け「結婚して」「友達になって」のファンレターは一日約20通。小中学生のファンも多かった。

 証言 立呼び出しの飯田寛吉さん(64) 「呼び出している私を、千代の富士関は土俵下からいつもにらんだ。力士ににらまれたのは初めてで、私もにらみ返しましたが、引退後本人から、にらまれて気合が入ったと言われ、うれしかった。にらみ合って、互いに励まし合ったんです」。

 CMの依頼も殺到した。

 証言 CM交渉の窓口となった広告代理店・文化企画西山哲太郎代表取締役(57) 「当時は力士のCMに特別な規制がなく、申し込みの43社から全国的な商品、力士のイメージを崩さない企業をと、厳選しました。けいこもあるし、5社が限度。契約金は一社1500万円でした」。

 故郷の北海道福島町は、当時工事中の青函トンネルの北海道側出口。人口1万1000人(現在は7700人)の町にも、旋風は襲った。

 証言 父秋元松夫氏(70) 「一番多い時は32社、メシも食べずに取材され続けました。オラは漁師なので午後7時半には寝るが、真夜中に起こされたことも。田舎者で、マスコミが怖かった。レースのカーテンをして居留守を使ったこともありました」。

 修学旅行のルートになり、観光客が勝手に玄関の前でバンザイした。バレンタインデーには段ボールに6箱分のチョコが送られてきた。

 証言 西山氏 「前年に長嶋茂雄が巨人の監督を辞任、世界の王も現役を引退した。相撲界を引っ張った貴ノ花も、あの初場所6日目に引退し、国民的ヒーローの座が空いていた。そこに千代の富士が現れた。巡り合わせだった」。

 この年、千代の富士は夏場所13勝2敗(準優勝)名古屋場所14勝1敗(優勝)で一気に横綱まで駆け上がった。【特別取材班】

※記録や表記は当時のもの