原節子さんが95歳で亡くなった。表舞台から姿を消して52年。それでも「永遠の処女」のイメージは消えなかった。「映画の力」だと思う。

 代表作の「東京物語」(53年)は3年前、英映画協会が10年ごとに選出する「映画監督が選ぶベストテン」で1位になった。撮影から60年を経ても、その魅力は衰えていない。

 小津安二郎監督とは、この映画を含めて6作品。30代の原さんは「若さ」を卒業して、しっとりとした美しさを映像に残している。

 はうようなローアングルで撮る小津監督の手法に、額とあごのきれいなラインが生きている。カラッと笑い、サラッ泣くのだが、それが心に染みる。名コンビならではの表現なのだろう。

 どちらかといえば「洋風」の顔立ちが、小津作品を通して海外ではしとやかな日本女性の典型として認知されているという。

 小津監督が60歳で亡くなったのに殉じるように、原さんは42歳で引退し、その後は鎌倉の自宅で「隠遁(いんとん)生活」を送ることになった。

 トップスターの突然の引退。今の時代なら、そう簡単に世間の目から逃れることはできないだろう。が、当時はもちろん「写メ」は無いし、ワイドショーの元祖と言われるNET(現テレビ朝日)の「モーニングショー」が始まったのはその翌年の64年。写真誌に至っては「FOCUS」創刊が18年後の81年だから、「消えること」は想像するほど難しくなかったのかもしれない。

 80年代に鎌倉での暮らしぶりを写真誌に撮られたことがあったが、それも一過性のものだった。

 対照的に、80年に結婚とともに引退した山口百恵さんの場合は簡単ではなかった。子どもたちの入学式や運動会…。加熱する芸能マスコミとの押し引き、世間の目と折り合いをつけるまでには長い時間が掛かっている。人ごとのように書いたが、結婚会見の当日に、入社間もない私は絶縁状態にあった父親の元を訪れたし、運動会の折には何度か学校の外側から取材の機会をうかがったことを覚えている。

 実は、原さんも可能な限り外出を控え、買い物も親族に頼んでいたという。半世紀を超える引退生活を考えると、窮屈な思いをしていたのではないかと思う。

 だからこそ、銀幕での楚々としたイメージが保たれたのも事実である。もし、スターの義務として人前に出ないことを自らに課していたとすれば、何とも気の毒な話である。

 踏み込んでいい領域と触れてはいけない部分の線引きは常に曖昧で、時代によって変化する。「有名税」として踏み込むのが当然となる場合もあれば、マスコミの行き過ぎと非難されることもある。

 映画の表裏を取材し、それを生業としながら、行き過ぎれば作品のイメージをも壊すことにもなる。壊すのは簡単だが、守るのは生半可なことではない。

 文字通り映画に、小津作品に殉じた原さんの生き方を改めて振り返り、考えさせられる。【相原斎】