戦争は銃後からもいろんな風に見える。残された映像や生存者の証言が惨劇の断片を伝えるが、1人でこれほど多面的な経験をした人は少ないだろう。美輪明宏(81)は否応なくさまざまな局面に立ち合い、幼少期から何事も見通すような眼力を持っていたようだから、その話は生々しい。

 ドキュメンタリー映画「追憶」(11月5日公開)の完成試写会で話を聞いた。終戦10カ月前、南太平洋パラオ諸島ペリリューで繰り広げられた激戦にスポットを当てた作品である。1万人を超える兵士が亡くなったこの戦いで、島民は事前に安全地帯に誘導され、犠牲者は1人も出なかった。ナレーターを引き受けた美輪は「悲劇の跡を、映画の中の美しいペリリュー島の姿が、今、静かに物語ってくれます」と穏やかに振り返った。

 自らの体験談になると一転、戦時の記憶はせきを切ったように噴き出す。「ペリリューの中川州男大佐のように、民間人を犠牲にせず、最後まで軍人としてまっとうされた立派な方も確かにいました。でも、どうしようもなくサディスティックな軍人も少なくなかった。上層部は兵士や国民を圧倒的な敵に竹やりで立ち向かわせたんです」と苦い思いを隠さない。

 「わけも分からず、何でもかんでも敵性と言われてつぶされました。誰も彼もが、罪のない人たちが戦地に駆り立てられた。世界に類のない色彩感覚と文化を持った日本は、戦争を始めて日本ではなくなったんです」

 実家が長崎で経営していた大規模なカフェ「世界」は「敵性文化を商売にしている」と、日米開戦直後に閉店に追い込まれた。従業員たちは行き場を失い、徴兵された者も少なくない。カフェは遊郭街にあり、華やかな色彩が急速に失われていく様も目の当たりにした。10歳の美輪は、戦局が悪化した後の竹やり訓練も体験している。

 「竹やりを刺して、手を前に出してイチニイサンシーってグーパーグーパーとやらされるんです。何かと思ったら敵兵の○玉を握りつぶせって。バカじゃないですか。敵は原爆を落とそうとしていたんですよ」

 長崎で原爆投下の「雷のような光」も目撃した。だからこそ、竹やり訓練の記憶はますますむなしい。投下時、爆心地から4キロの自宅にいて無事だったが、6日後に市内の実家に祖父母を探しに行って、惨状にがくぜんとした。

 戦後、歌手を目指して上京するが、実家の倒産をきっかけに音楽学校を中退して、生活のために米軍キャンプでジャスを歌った。

 「私はシャンソンを歌いたかったんですけど、アメリカ人はフランス語にコンプレックスがあって受け付けないんです。でも、彼らからいろんな話を聞いて、いっそう、あの戦争のむなしさを実感しました。沖縄戦では『1人1万ドル分の弾薬を使っていい』と言われたんですって。当時の1万ドルですよ。たいへんな額じゃないですか。こちらは弾も食べるものもなかった。そんな戦争をバカどもにやらされていたんです」

 奥山和由プロデューサー(61)が「美輪さんの戦争のお話は映画以上に説得力があります。映画の最後にインタビューを入れれば良かった」と真顔で言うと、美輪は「そんなことをしたらオカルト映画になっちゃいますから」と苦笑いしていた。

 強い思いのなせる技か、それとも持って生まれた「霊力」か。ナレーションの収録では不思議なことが起きていた。小栗謙一監督(69)が明かす。

 「突然キーンと音がして機械が止まった。最新の設備なんですが…。何度やっても同じ敵軍上陸の場面でそうなる。他の作品では当たり前のように動いている。スタッフはいまだに原因が分からないと言うし」

 美輪は平然と言う。

 「私は昔から機械を止めてきましたから。記者さんが使うテープレコーダー。芸能生活は65年になるから今よりかなり大きなものだったんですけど、突然止まったことがずいぶんあった。通っている原宿の歯医者さんが機械マニアで設備は最新なんですけど、これも私が座ると、止まってしまって困っちゃうんです」

 数え切れない犠牲者の分まで強く生き、ものを言う。そんな思いが言葉の端々にある。戦争もどんな圧政も決してつぶせないものが必ずある。黄金色に輝く髪で、宮崎アニメから抜け出して来たように見える美輪の姿には不思議なほど説得力があった。【相原斎】