常に強いられる「1対2」の局面が、ドリブラーとしての力を物語っていた。
15日、ルヴァン杯決勝G大阪戦の前半36分。浦和MF駒井善成(24)は、左足首を痛めたMF宇賀神に代わり、埼玉スタジアムのピッチに立った。
右サイドに入り、ドリブルで仕掛ける構えを見せるが、思うように突破はできない。それは、初めて迎える大舞台の重圧ゆえではない。
駒井がボールを持つと、G大阪は左サイドDF藤春だけでなく、MF1枚を必ずマークに走らせた。
藤春が縦への突破を、MFが中への突破を防ぐ。昨季まで3シーズンで国内3大タイトル5冠。そんな屈指の強豪が、なりふり構わず駒井を止めに来た。
相手の体重移動をよく観察し、左右に振り回して置き去りにするのが、駒井のドリブル。手分けして2方向を抑えられては、そう簡単に突破はできない。
そう思わせたが、それでも機を見ては果敢に仕掛けた。2人の間を縫うようなドリブルで、G大阪守備陣に冷や汗をかかせた。
何より、駒井にマークが集中した分、周囲がフリーになった。ドリブルをしても、しなくても、駒井の存在感は大舞台で際だった。
◇ ◇
重心の位置をよくみて、相手の逆をつく。駒井のドリブルは、きれいに決まれば、一瞬で3メートルほども相手を置き去りにする。振り回され過ぎて、尻もちをつくDFもいる。
相手を腰砕けにするドリブル。その原点は中学時代にあった。幼少時からドリブラーとして有名だった駒井は、京都ジュニアユースである指導者と出会った。
後になでしこジャパンのコーチなどを歴任し、現在は大宮の育成部長を務める、中村順さんだった。
中村さんはドリブルで仕掛ける駒井のプレーをしばらく見た後、こう告げた。
「それではプロでは通用しないな」。
宇佐美、宮吉ら「プラチナ世代」の一角として、将来を嘱望されていた。自分もプロになる。駒井はごく自然に、そう思っていた。
そんな有望株に、中村さんは「プロに行くヤツは、10回仕掛けたら8~9回は抜く。お前は10回やって5回」と突きつけた。
納得がいかない。口をとがらせながら、それでも駒井は「じゃ、どうすればいいんですか」と聞いた。中村さんの指示は、たったひと言だった。
「またぐな」。
◇ ◇
その夜。帰宅した駒井は、父に珍しくこぼした。
「どうしたらいいのか、まったく分からない。サッカーやめようかな」
練習場に現れただけで、緊張感が走る。名コーチの例にもれず、中村さんもそんな存在だった。
発する言葉も重い。駒井は素直に、フェイントを封印してのドリブルを始めた。すると今まで簡単に抜けていた相手も、まったく抜くことができなくなった。
止められる。ボールを奪われる。「何やってんだよ」。周囲の心の声が聞こえるような気がした。
だってまたぐなって言われたから-。そんな言葉が口を突きそうにもなった。
駒井は懸命に、中村さんの言葉を思い出した。
「成功率が高い選手は、タイミングを選んでいる。お前は10回のうち10回仕掛けるけど、突破を90%成功させる選手が仕掛ける10回は、そもそも20回の中の10回だ」
敵チームの布陣バランス。向き合うDFの体勢。フェイントをかける代わりに、そうした相手の状況をよく観察するようになった。
もともと技術は並外れて高かった。ある日、重い雲が急に晴れたように、駒井の前に活路が開けた。
守備陣形のバランスを整えようとする。あるいは、ボールを持った駒井との距離を詰めてくる。そういう反応に伴い、DFの重心は左右に偏る。その瞬間がはっきりと見えた。
シンプルにその逆を突く。フェイントをしなくても、簡単にDFを抜けた。
一度コツが分かると、面白いように突破が決まりだした。フェイントで抜くのと違い、守備側の選手が物理的に動けない方向を狙うため、うまくいけば相手は対処のしようがない。
「相手が腰砕けになって、尻もちをつく。気持ち良かった。これか、と思った。僕がプロでやれているのは、中村さんの『またぐな』のおかげです」
◇ ◇
日曜日の午後。浦和のペトロビッチ監督の日課は、リーグ戦翌日の軽めの練習終了後、自宅に急いで帰ってテレビをつけることだ。
そして、日曜日開催のJ2リーグ戦を熱心にチェックする。正午すぎの試合に始まり、ナイトゲームが終わるまで、何時間もテレビにかじりつく。
4年前もそうだった。そして、京都の若きドリブラーのプレーに魅入られた。
相手を振り回し、腰砕けにする。京都ユースから昇格し、プロ3年目。その年から、期待を込めて背番号7を預けられていた、20歳の駒井だった。
週明けの大原サッカー場。ペトロビッチ監督は、全体練習開始前のスタッフルームで、コーヒーを手に熱弁を振るっていた。
「面白い選手がいた」
目を細め、心底うれしそうに言った。その頃から駒井は、ペトロビッチ監督の目にとまっていた。
◇ ◇
15年秋。ついに浦和からオファーが届いた。駒井は「驚きました。うれしかった」と言いつつ、即決はできなかった。
子どものころから育ててくれたクラブ。サポーターも生え抜きの駒井を、温かく見守ってくれていた。
J1でプレーするのは目標だった。しかしそれは、京都を1部に昇格させることで果たすつもりだった。
悩んだ。悩み抜いた。チームにはビッグクラブでのプレー経験を持つ、MF山瀬やFW大黒もいた。
しかし、あえて相談しなかった。「大事な時こそ、自分で決めないといけないと思った」。自分の状況。京都の状況。そして浦和の状況。よく見て、考えて、決めた。浦和へ行く。
中村さんには、すぐに電話で報告をした。恩師は背中を押してくれた。
ビッグクラブのオファーに、簡単に飛びついたわけではなかった。それが中村さんには好ましかった。
京都への愛着は人一倍。そして浦和では、厳しいポジション争いが待つ。非常に難しい判断だった。愛弟子はそこから逃げず、考え抜いて決断した。
判断には責任が伴う。それはドリブル突破をはかる局面でも、サッカー人生の岐路でも一緒だ。
感慨深かった。立派な大人のサッカー選手に育った。ならば多くの言葉はいらない。中村さんは言った。
「いい判断だ。頑張れ」
◇ ◇
覚悟していた通り、浦和では非常に厳しいレギュラー争いが待っていた。
ペトロビッチ監督の期待もあり、シーズン序盤から途中交代での出場機会には恵まれた。
ただ、浦和の戦術は独特だ。高度な連動性も求められる。なじむのには時間がかかった。
試練もあった。5月25日、アジアチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦。FCソウル戦はPK戦にもつれ込んだ。
浦和8人目のキッカーを務めた駒井は、PKを失敗した。これでチームは敗退。延長後半に李の同点弾をアシストし、結果を出していたが、一転「人生最悪の経験」と奈落に沈んだ。
こうした1プレーをきっかけに、浮上の機会を失うアスリートもいる。ペトロビッチ監督もそれを気遣ってか、直後のリーグ戦2試合で駒井に先発フル出場の機会を与えた。
しかし、G大阪戦、広島戦ともに敗れた。7月から8月半ばにかけ、駒井は出場機会を大きく減らした。
◇ ◇
それでも、駒井は移籍を後悔したりはしなかった。
京都を離れる際には、東城陽グラウンドに300人ものサポーターが見送りに来てくれた。
ありがたかった。だから彼らには「わがままでここを離れるからには、必ず代表までのし上がります」と誓っていた。
ハイレベルな定位置争いの中で、自分を磨く。高みを目指す。すべて自分で決めたことだ。
さいたま市の夏は暑い。しかし、駒井は来る日も来る日も居残りで、ドリブル突破からのクロス、シュートの練習を重ねた。
「京都はもっと暑いですからね」。そう笑い飛ばしていた。やがてチャンスは来た。9月。駒井の先発定着とともに、チームは連勝街道に入った。
「失速の浦和」と呼ばれ続けてきたチームが、現在まで公式戦10連勝を続けている。
ルヴァン杯得点王の高木。ドリブルでチャンスを量産する駒井。長いシーズンで疲労を蓄積させてきた主力をフォローするように、この2人が台頭してきたことこそが、終盤戦の快進撃の原動力だ。
◇ ◇
中村さんは今月、Jクラブ育成責任者研修で、欧州を回った。マンチェスターCでは、浦和のOBでもあるベギリスタイン強化部長と話をする機会があった。
同強化部長は信奉するクライフ氏の教えの中でも、特に現代サッカーに通じる要素として「個の力で打開できるサイドアタッカーの重要性」を説いた。
中村さんはこの話を聞いた時、自然と今季の浦和のサッカーを思い浮かべた。
「両翼の選手が開いて構えて、相手に脅威を与える。そのことで相手のマークを引きつけ、中央にスペースをつくる。そうすれば、日本人が得意としてきた細かいパス交換が、より生きる形になる。ベギリスタインさんの話を聞いて、私は再確認しました。ペトロビッチ監督は、日本人の持ち味を最も生かせるサッカーを、世の中に提示しているのだと思います」
サイドアタッカーの仕事場は、自陣のゴールから最も遠い。多少強引に仕掛けて、ボールを奪われても、失点につながるリスクは最も少ない。
日本人の持ち味を生かして効果的に攻撃しつつ、失点のリスクを避けることもできる。現に浦和はここまで、リーグ2位の59得点を挙げつつ、同最少の27失点に抑えている。
ルヴァン杯決勝のG大阪戦。駒井は2人のマーカーを引きつけ、中央にスペースをつくって周囲を生かした。まさに中村さんが言う、日本人の持ち味を最も生かせる形だ。
「またぐな」から10年。中村さんの教えがめぐりめぐって、日本理想のサッカー実現に寄与している。
「あいつは本当に頑張っている」。中村さんはそう言って、目を細めた。
「だから、大宮も頑張りますよ。泉沢あたりが活躍しているように、サイドアタッカーを重視しているのは、うちも一緒です。駒井が頑張ってくれればくれるほど『あいつはこうやってうまくなったんだ』と、私も子どもたちに教えやすくなる。個の力でサイドを担える選手を、どんどん育てあげたい」
身ぶり、手ぶりに力がこもる。言葉は熱を帯びた。
◇ ◇
「そうですか。中村さん、そんなことを言ってくれているんですね」。
25日、大原サッカー場。オフ明けの練習場で、駒井はスパイクを脱ぐ手を止めて、顔を上げた。
「でも僕はまだまだです。多少警戒されたところで、それをこじ開けるくらいじゃないと、チームのためにはならない。もっと存在感を示したい」
チームは第2ステージ優勝決定まで、あと勝ち点1に迫っている。年間勝ち点でも首位に立つ。
そしてリーグ終了後には、年間王者を懸けたトーナメント戦、リーグチャンピオンシップに出場する。
「中村さんにいい報告をしたいです。僕も大人になったし、シーズンオフなら一杯やりながら話をする、ってのもいいですよね」
そう言うと、両太ももを手でパンとたたいて、駒井は立ち上がった。
シーズンは大詰め。世間からの注目度も増す。そこでどんなサッカーを見せられるか。浦和が示す「日本的サッカー」の真価が問われる。
それはつまり、キーマンの1人である駒井の価値が問われる、ということでもある。ドリブラーとしての存在感を示せる、格好の舞台が待っている。【塩畑大輔】
◆塩畑大輔(しおはた・だいすけ)1977年(昭52)4月2日、茨城県笠間市生まれ。東京ディズニーランドのキャスト時代に「舞浜河探検隊」の一員としてドラゴンボート日本選手権2連覇。02年日刊スポーツ新聞社に入社。プロ野球巨人担当カメラマン、サッカー担当記者、ゴルフ担当記者をへて、15年から再びサッカー担当。16年11月に野球担当に異動する。