10日に引退を発表した神戸DF相馬崇人(35)の、14年間のサッカー人生は日本、ポルトガル、ドイツの5クラブを渡り歩く、波瀾(はらん)万丈なものだった。

 名門・読売日本SCジュニアユースから東京Vユースをへて国士大に進学。01年に関東大学1部リーグ優勝を果たし、03年に加入した東京Vでは04年に天皇杯を制しながら、翌05年にはJ2降格と天国と地獄を味わった。

 J1でのプレーを望み、06年に浦和に移籍したが、三都主アレサンドロとのレギュラー争いに苦闘の日々を送り、リーグ戦出場は18試合にとどまった。それでも左サイドでの超攻撃的なプレーで評価を高め、翌07年2月には、オシム監督政権下の日本代表候補合宿に初招集された。

 浦和では三都主が欧州に移籍した07年は開幕スタメンを飾ったが、その後はMF平川との定位置争いに苦しみ、リーグ戦には13試合しか出られなかった。それでも同年のクラブ・ワールドカップで定位置を確保。全3試合に先発し、3位入りに貢献した。

 相馬は、それでも満足しなかった。08年にはリーグ戦27試合に出場と定位置を確保したが、海外移籍を目指して翌09年1月に浦和を退団。移籍を前提としてドイツ2部フライブルクの練習に参加予定だったが、同クラブと浦和の交渉が長引いたため話は消滅。移籍先も決まらないまま、浦和を飛び出すも同然の状態での退団だった。

 所属クラブがない中、相馬はトルコに渡った。ロシア1部移籍も視野に入れつつ、現地でブラジル人が集まるチームに入って、試合を繰り返して売り込みを続けた。そして、プロ1年目の03年に東京Vで指導を受けた、ロリ監督が指揮を執るポルトガル1部マリティモへの入団を勝ち取った。

 10年4月には、シーズン限りでのマリティモ退団を明らかにして、同6月にドイツ2部コトブスに入団した。12年までの契約を結んだが、1年後の11年6月には退団を発表。米MLSのクラブからのオファーもあったが、同7月に神戸に加入した。神戸でも翌12年にJ2降格と、13年にJ1復帰を経験した。相馬はクラブを通じて、波瀾(はらん)万丈のサッカー人生を振り返り、感謝した。

 「今年限りで14年間続けてきた現役生活を引退することに決めました。育てていただいた南百合ヶ丘少年サッカークラブ、ヴェルディの下部組織、国士舘大学に心から感謝しています。東京ヴェルディ、浦和レッズでそれぞれ3年間、ドイツ、ポルトガルの海外でもプレーすることもでき、色々な経験やリーグ優勝などタイトルも獲ることが出来ました。この14年間を振り返って思い残すことも無く、自分自身のなかではやり切った思いがありますので、今まで関係していただいた全ての皆様には感謝の言葉しかありません。本当に今までありがとうございました」(原文のまま)

 私生活では、マリティモへの入団を発表した09年1月28日に、モデルの秦れい(現相馬れいこ)との結婚を発表した。同年11月に長男が誕生した際は、ポルトガルにおり、出産に立ち会えなかった。妻から送られてきた写真を見て「父親になる実感はないけど、送られてきた写真を見たら、なんかウルッときちゃいました…」とブログにつづった。12年6月には長女が誕生。「前回の出産の時はポルトガルにいて立ち会えなかった(中略)でも産まれて来た瞬間本当に感動した。世のお父さん候補達、立ち会った方が良いよ絶対!」(同)とブログにつづった。

 日本屈指のサイドMFとして海外に挑戦し、その海外で磨いた守備力で、戻ってきたJリーグではサイドバックとして活躍。MFからDFにポジションを移し、現役を終えた相馬の傍らには、常に家族はいた。相馬は引退コメントの最後に「監督、選手、スタッフを含め、ヴィッセル神戸に関わる皆様とサポーターの皆様、そして、家族に心から感謝しています」(同)と思いをつづった。