日刊スポーツのニュースサイト、ニッカンスポーツ・コムです。


  1. モータースポーツ
  2. 鈴鹿サーキット50周年特集

鈴鹿8耐で好走する平忠彦(90年7月29日)
鈴鹿8耐で好走する平忠彦(90年7月29日)

「ハチタイ」のフィナーレほど感動的なものはない。F1、インディ、ルマン、ラリーなど世界的なビッグイベントと比べても、鈴鹿8時間耐久ロードレースのゴールシーンは、いつ見ても特別だ。真夏の、ギラギラと照りつける太陽が落ちて、コースがグレーの闇に包まれるころ、最終コーナーにヘッドライトをともした勝者のマシンが姿を見せる。地獄のような8時間を耐え、トップで戻ってきたたった1人の優勝者。チェッカーを受け、その後、メーンスタンドの観客がコースになだれ込み、そこを埋め尽くす。ライダーと、それを支えた多くのスタッフ、観客、そして主催者が一体となったイベントの最後を飾る演出に、毎年、胸を熱くした。

 1990年。それは、過去に取材した8耐の中でも特別な夏になった。主役は、平忠彦-。85年、バイクメーカー大手のヤマハからメーカーの全面支援を受けるワークス体制で本格参戦。以降、優勝候補と目されながら完走できず、ハチタイの壁にはね返され続けてきた。ロードレースの全日本選手権500CCクラス2連覇。世界選手権250CCクラスでの優勝など、日本の第一人者が、なぜか8耐だけは勝てない。引退も近くなってきた男が、最後のチャンスにかけた夏だった。

 レースは、予選3位からスタートした平・ローソン組が41週目に、ライバル、ホンダのガードナー転倒で奪ったトップを守り切り、205周の史上最多周回で優勝した。レース終盤、平は相棒ローソンのゴールを待ちきれず、ピットロードの前をウロウロ。さらにチーム監督とガレージの中にこもり、その瞬間を待った。「あと3分、あと2分、あと1分…」。うわごとのようにつぶやき、その瞬間放心したように目を潤ませた。「もう、最後の5分が恐怖だった。ファンのみなさん、長年お待たせしました!」。優勝インタビューの声が震えた。

 モータースポーツでは、当時国内最大のイベントだった。この年、延べ入場者数は36万8500人と、史上最高を記録。決勝だけで16万人の観客が、待ちわびた平の優勝を祝福した。表彰台を囲むファンから「タイラ!、タイラ!」のコールが鳴りやまず、日本が生んだ最高のロードレーサーの優勝をその目に焼き付けた。平は、最後の仕事を果たしたかのように、翌年、現役を引退した。

 8耐は世界でも類を見ない過酷なレースだ。その中で、2人のライダーとマシンが一体となってゴールを目指す。レース中、マシンを転倒させ、壊れたマシンを数時間かけて押して戻ってきたライダーがいた。マシンの開発も務めていた平は、8耐参戦中一度もマシンを壊したことがなかったという。85年から取材して「人馬一体」ではないが、人間とバイクのきずなみたいなものを感じるようになった。いつしか、自動車教習所に通い、記者もバイクの免許を取り、バイクにまたがった。【85~92年担当 桝田朗】




日刊スポーツ購読申し込み 日刊スポーツ映画大賞