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 「ノリック」の愛称で親しまれた天才ライダー阿部典史が、ロードレース世界選手権(WGP)で初優勝したのは、96年日本GPだった。当時、125ccや250ccでは日本人ライダーの優勝はあったが、500ccでは82年スウェーデンGPの片山敬済以来3人目。日本での優勝は初めてで、それも弱冠20歳での快挙だった。日本バイク界の新星の偉業は、見ている者すべてを魅了した。

 強烈な走りだった。11番グリットからスタートし、1週目で4位に浮上。3週目で3位になり、シケインで追い抜きを仕掛け、8周目でトップを奪った。その後は、レース後に「1度も後ろは振り返らなかった。ペースを落としたら、自分に負ける気がした」と言った通り、とことんコースを攻め続けた。14周目には当時のコース新となる最速ラップ2分9秒089をマーク。周を重ねるごとに後続を突き放した。

 プレスルームではラップタイムが出るたび、日本人記者エリアで歓声が起こり、普段はにぎやかなイタリア人記者ら欧州勢は苦虫をかみつぶしたような表情で黙り込んでいた。だが、勝利が近づいてくるに従って、そのトーンは変わっていった。  阿部がカーブで路面すれすれにマシンを傾ける。コーナーの立ち上がりでタイヤが流れる。ブラックマークがつく。「あっ!」「わっ!」「きゃっ!」。もうみんなドキドキだ。スポット参戦だった94年日本GPで、阿部は優勝争いの末、残り3周で転倒リタイアしていた。だから誰もが祈るような気持ちで、極限の走りを見守っていた。歓声より鼓動の音が大きくなった。

 最終ラップ。ヘアピンカーブ、200R、スプーン…ポイントのたびにかたずをのみ、無事に通り過ぎるとため息がでた。130Rではまたタイヤが少しぐらついた。最後のシケインを抜けたのを見届けると、「日本人記者村」は総立ち、拍手に包まれた。表彰台で涙を流す阿部の姿にもらい泣きする者、いつまでも興奮が覚めない者、「こんな日が来るとは…」と感慨深くつぶやく者も。

 「トップを走り慣れていないから作戦なんてなかった」「今までの悔しさをぶつけた」「表彰台に立てないなら転んだ方がましだと思ってレースに臨んだ」。まだ無邪気さが残る顔で、阿部はそう振り返った。後に「ハンドルから手が離れませんように」と、レース直前に手袋に大好きな星のマークを書いたと明かしている。また、翌日の「一夜明け記者会見」には、レースのVTRを見ていて出発が遅れ、遅刻したというエピソードもある。

 当時の阿部は、新スターであると同時に「やんちゃな弟」のように関係者から愛されていた。  07年10月、ノリックは不運な交通事故により、32歳の若さでこの世を去った。だが、あの日の走りと明るい笑顔は人々の心に永遠に刻まれているはずだ。【95~96年担当 岡田美奈】




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