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F1日本GPで3位に好走した鈴木亜久里のマシン(90年10月21日)
F1日本GPで3位に好走した鈴木亜久里のマシン(90年10月21日)

 90年代のF1ブームの起爆剤になったのが、90年10月21日の日本GP(鈴鹿)決勝だった。

 幕開けは劇的だった。3年連続となったセナ、プロストの年間王者争い。ポールポジションを獲得したセナは9点リードしており、逃げ切れば2年ぶりのタイトルが転がり込む。しかしスタートダッシュを決めたのは予選2位のプロストだった。アウトからかぶせるように第1コーナーへ。セナも引かない。左フロント部分がプロストのマシン後部にぶつかった。コースアウトする2台のマシン。スタートから8秒後の出来事だった。

 2年連続王者を逃したプロストは「セナはタイトルを取るためには死んでもいいのではないか」と非難した。観客に手を振りながらピットに戻ってきたセナは「先に行く力がないのなら道を譲らないと」と突っぱねた。無機質な車の戦いの裏で、人間の意地と意地が火花を散らし、はじけた。

 主役が消えたかに思えたレースだったが、新たなドラマが待っていた。予選10位。アレジの欠場で9番手からスタートした鈴木亜久里が着実に順位を上げていった。7周目に6位、20周目に5位に浮上した。マンセルのリタイアで4位となると、最速ラップを更新しながら35周目には3位へ。

 残り2周。総立ちとなった観衆の拍手を受け、観客席で振られる日の丸を見た亜久里の目から涙があふれ出した。表彰台を確信した14万1000人の観衆のパワーに後押しされ、3位でゴール。右手を高くかざした。「チームのみんなが僕のホームコースでいい成績を挙げさせようと頑張ってくれたから」。日本人初の表彰台だった。

 この日、東京ドームではプロ野球の日本シリーズ(巨人-西武)第2戦が行われていた。スポーツ紙では1面で掲載するのが常識の時代、日刊スポーツは亜久里の快挙を1面に据えた。他紙、ほかのメディアも追随していった。F1が市民権を得た瞬間でもあった。【90~95年担当 飯田 玄】




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