現役時代のジーン・バッキーさん
現役時代のジーン・バッキーさん

外国人初の沢村賞を獲得し、日本通算100勝を挙げたジーン・バッキーさんが出血性脳卒中のため82歳で亡くなって、1年がたった。1960年代に阪神のエースとして大活躍した彼が、4人の娘と1人の息子、8人の孫、2人のひ孫にみとられ天国に召されたのは、昨年9月14日(日本時間15日)のことだった。遺族はルイジアナ州とテキサス州の3つの市に分かれて暮らしており、また今年の9月14日は月曜日に当たるため、全員が集まることはないという。長女のリタさんは「でもその日は、家族の心はひとつになりますよ」と知らせをくれた。

今にして思えばあれは、虫の知らせだったとしか思えない。昨年9月10日深夜。なんとなく声を聞きたくなった私は、フェイスブックの通話機能を使い、旧知のバッキーさんにビデオ電話をかけた。バッキースマイルと愛された笑顔だけはいつも通りだったが、そこは病室だった。

「また日本に行くよ。王(貞治)さんと対戦しないとね。必ず空振りを取るから」

太平洋を挟んで笑い合った私が、彼が会話した生涯最後の日本人となった。

米国のマイナーを解雇され、バッキーさんは62年シーズン中に阪神へ新天地を求めた。入団テストではピッチングのほか、豪快な打撃も披露。「一塁手としても使おうと思ってくれたのかもしれないね」と笑っていたが、あながち冗談とも思えない。日本通算9本塁打。65年に記録した4本塁打は、現在も阪神投手としてのシーズン球団最多である。64年には29勝を挙げ、外国人初の沢村賞を受賞した。65年6月28日巨人戦では、これまた助っ人投手初のノーヒットノーランを達成。68年8月27日広島戦では、ジョー・スタンカ(南海)に続き外国人2人目の通算100勝と、輝かしい記録を誇る。

阪神バッキー(左)の2球続けた危険球に、巨人王(中央)はバットを持ったまま抗議。右は巨人長嶋(1968年9月18日撮影)
阪神バッキー(左)の2球続けた危険球に、巨人王(中央)はバットを持ったまま抗議。右は巨人長嶋(1968年9月18日撮影)

68年9月18日巨人戦では、王への近めの球から両軍総出の大乱闘に発展。このとき右手親指を骨折し、結果的に選手生命を縮める形となった。地元ルイジアナ州で農産物監督官をしていた父ナメーズさんからは、厳しい内容の国際郵便が届いた。「お前は気が短いから、先に手を出したんだろう。悪かったのはお前か」。これに「殴ったのは僕が先ではありません。行きがかり上パンチを見舞いました」と伝えると、安心してくれたという。

生まれ故郷のルイジアナ州スコットは、フランス系移民が興した「アカディアナ」という地域の一部である。そのため、生涯にわたり英仏2カ国語を話した。明るい性格で「フレンドリー・フレンチマン」と誰からも愛された、素晴らしい家庭人でもあった。伯父の紹介で知り合ったドリス夫人を伴って来日。甲子園そばの文化住宅に住み、遠征先の旅館では浴衣を身にまとって寝た。瞬く間に日本語も覚え、サインを頼まれるとカタカナで「バッキー」とペンを走らせた。息子や娘たちにクリスマスプレゼントを準備する際には、前もって中身を知られたくない。子供たちの前で、ドリス夫人と「何を買おう?」と日本語で打ち合わせていたという逸話も残っている。引退後に夫婦で欧州旅行に出掛けた際に、日本人を見掛け「昔、阪神にいたんですわ」と関西弁で話し掛けると「あ、バッキーさんや」と驚かれたこともあったという。

晩年は腰痛や高血圧に苦しみながらも「また日本に行きたい。それが人生最後の望みだ」と願い続けた。その望みは、無念にもかなえられずに終わった。名助っ人が生涯を懸けて愛した甲子園。新型コロナウイルスの影響も減り、大観衆で埋まった聖地の様子をご遺族に知らせるのが楽しみだ。【記録室 高野勲】

02年、日米OBドリームゲームの歓迎レセプションに夫人を連れて参加したバッキーさん
02年、日米OBドリームゲームの歓迎レセプションに夫人を連れて参加したバッキーさん