史上最強助っ人と呼ばれた阪神ランディ・バースには、隠れた“助っ人”がいる。

打撃フォームの確立に影響を与えた選手が、長崎慶一氏(阪神在籍時の登録名は啓二)だ。伝説のバックスクリーン3連発から、もうすぐ36年。1985年(昭60)4月17日巨人戦で、掛布雅之と岡田彰布の先陣を切って本塁打を放ったバースの、日本での打撃のお手本ともいうべき存在である。

長崎氏は72年ドラフト1位で、法大から大洋(現DeNA)に入団した。82年には打率3割5分1厘で首位打者にも輝いた好打者である。腹の前でバットを握り、両手首で円を描くようなタイミングの取り方は、ほかの選手には全く見られない特別なものだった。

プロ入り当初はバットを振り回すタイプだったが、結果が伴わない。当時の大洋コーチで、現役時代は西鉄(現西武)黄金時代の主軸だった大下弘氏が、目の前でとても柔らかいバットコントロールのお手本を示してくれた。ここから試行錯誤が始まった。

長崎氏 テークバックの取り方というものは、人それぞれ違うものです。何年もかけて自分の形を探していきました。

従来のフォームは、あたかも腹を切るような、ダウンスイングだったという。ところが体の前で手首を回しタイミングを図ると、打撃が変わった。まず、打球が詰まらない。芯に当たった打球がファウルにならず、フィールドの中に鋭く飛ぶようになった。

池内豊投手との交換トレードで85年に阪神へ移籍すると、来日3年目のバースがいた。同じ左打者。長崎氏のフリー打撃を見たバースは「あんなに手首を動かして打てるのか」と疑問に思ったという。

長崎氏 よく彼の視線を感じるようになりました。変わったフォームだったから、興味を持ってもらえたんでしょう。

ここからバースの打撃が、目に見えて柔らかくなっていった。構えた位置から軽く手首が下がり、また上がってくる。余計な力が抜けて、タイミングが合い始めた。もともとバットコントロールは卓越していたため、この進歩は鬼に金棒だった。普段のバースは、34・5インチ(約87・6センチ)のバットを使っていた。ところが速球派の投手が出てくると、長崎氏の33・5インチ(約85・1センチ)のバットを無断で使い、打席に入ったこともあったという。

長崎氏 彼はメジャーでは速球に押されがちで、結果を残すことができなかった。日本で成功するために、なんでも吸収したかったんでしょう。川藤(幸三)さんに将棋を教わり、私ともロッカーで指したりしていましたよ。覚えたのは駒の動かし方だけではありません。「二歩」が禁止なんてルールも、きちんと理解していましたね。

持って生まれたパワーと頭脳、そして自分の型に固執せずよいものは採り入れる柔軟な人間性。史上最強助っ人の誕生に、長崎氏は名脇役を務めたのだった。【記録担当=高野勲】

右越え本塁打を放つ長崎啓二。一塁走者ランディ・バース(1985年10月31日撮影)
右越え本塁打を放つ長崎啓二。一塁走者ランディ・バース(1985年10月31日撮影)