第5週の東大-立大戦を終えて、東大は明大戦、立大は早大、法大戦を残していた。だが、死闘を繰り広げた両校には、これ以上、気力も体力も残っていなかった。

対東大4連戦のすべてに先発して3完投2完封、計458球を投げて、東大初優勝の前に立ちはだかった立大のエース、野口裕美は「精も根も尽き果てていた」。東大戦の3日後の早大戦は4回3失点。翌週の法大戦も7回3失点で、いずれも敗戦。チームは早大、法大戦に4連敗し、4勝8敗1分け、勝ち点2の5位で、1981年(昭56)春のシーズンを終えた。

一方、東大のエース、大山雄司は、しみじみと敗北感を味わっていた。「負けてもともとのチームだが、いざ負けると、逃した魚の大きさを実感した。世論やマスコミにも『お前らの逃した魚は、とてつもなく大きかったんだぞ』とダメを押されているようで…」。1週空けた明大戦に先発したが、2回0/3、4失点で降板。試合も連敗し、東大は、1946年(昭21)春の2位以来となるAクラスも逃し、6勝7敗1分け、勝ち点2の4位に沈んで“赤門旋風”の春が終わった。

19年11月、東大野球部100年のトークイベントで“赤門旋風”を振り返る、東大の元エース大山雄司さん
19年11月、東大野球部100年のトークイベントで“赤門旋風”を振り返る、東大の元エース大山雄司さん

大学通算27勝を挙げた野口は、即戦力左腕の期待を背負って82年、西武ライオンズにドラフト1位で入団した。だが、結果を出せず、88年に引退した。通算登板は5試合、勝利は0。大学時代、おもしろいように奪った三振は、わずか3個だった。

その後、球界を離れ、今は東京で化学メーカーに勤務する。「東大優勝への期待が高まる中、いろんなものを1人で受け止めなきゃならなかった。その試合を何とかしのいだことが、強く記憶に残っています」。

19年11月、東大野球部100年のトークイベントで「伝説の東大-立大4連戦」について語る、立大の元エース野口裕美さん
19年11月、東大野球部100年のトークイベントで「伝説の東大-立大4連戦」について語る、立大の元エース野口裕美さん

野口の1年前に卒業した大山は、三菱重工に就職した。初任地の長崎県では、離島へ橋を架けるプロジェクトに参加した。「隠れキリシタンの島」と呼ばれる長崎・生月島を九州本土と連絡する生月大橋の建設だ。大学時代の専攻は造船だったが、エンジニアとしてのサラリーマン生活は、橋の設計にささげた。

大山は、当時を振り返って言う。「私にとって最も印象深い試合であるだけでなく、東大野球部の歴史の中でも特別な試合でした。学生時代の懐かしい思い出ですが、悔しい思いは今もあります。野口は、懐かしさと悔しさを共有できる相手です」。

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秋の日はつるべ落とし。大山と野口を主役に迎えた昨年11月末のトークイベントが閉会するころ、東大・駒場キャンパスは、すっかり夜に包まれていた。38年前、「伝説の4連戦」を投げ合い、今、壇上で握手を交わす2人のエースは、その後、まったく別々の人生を歩んで、この日、学生時代以来、初めて会ったという。(「東大野球部100年の挑戦」おわり)【秋山惣一郎】

握手を交わす大山雄司さん(左)と野口裕美さん(東大野球部提供)
握手を交わす大山雄司さん(左)と野口裕美さん(東大野球部提供)