田中はオリンピック(五輪)で黒星をつけられた相手の名前を覚えてはいない。「4回に打たれて負け投手になった印象が一番強いかな。誰に打たれたかは夢中だったから記憶にない」。公開競技だった1964年の東京五輪。全日本社会人選抜の先発を務め、“野球の母国”米国に挑んだが4回に崩れた。無死一塁から後にメジャーでシーズン30本塁打もマークした4番エプスタインに神宮の右翼フェンス直撃の二塁打。さらに左前2点適時打を許した。

64年10月12日付日刊スポーツ7面 囲まれた部分が五輪野球
64年10月12日付日刊スポーツ7面 囲まれた部分が五輪野球

4回4安打2失点で敗戦投手。翌10月12日付の日刊スポーツでの扱いは大きくない。7面のトップはレスリング。公開競技の野球は左隅に置かれ「社会人は田中打たれ零敗」と見出しがある。世間の関心が高くないこととは関係なく、悔しかった。

「勝負事は勝たないといけない」。本気で悔しがったのは稲葉誠治監督も同じだった。同年の日本社会人野球協会会報に記している。米国のパワーや守備力を素直にたたえる一方で「彼らのストライクゾーンは高低ともに日本の場合よりもボール1つも2つも低く思っているようで、我々が何ら疑わない高めのストライクに彼らはしばしば不満顔を見せた。ルールブックをよく読めと言いたかった」と断じている。

五輪での敗戦が田中の野球人生の転機の1つとなった。「自分の力がこれだけじゃ、ダメだと感じた。稲葉監督に風呂の中で鍛えろと言われて、重い石も持って手首を強くした」。会社に行けば机を指でたたき、皮を固くしてマメができないようにした。「ああいうところに出られて、ノンプロで終わりたくないという気持ちになった。もう1つ上の野球、プロ野球がある」。65年ドラフト会議で近鉄から6位指名を受けるも「まだ日通に入ったばかり。会社に失礼になる」と拒否。牙を研ぎ、68年に巨人の2位指名を受け、プロの世界に飛び込んだ。

現役時代の写真を手にする田中氏
現役時代の写真を手にする田中氏

人生のあやで五輪に導かれたように、プロ野球でも運命の糸が絡み合った。プロ2年目のフリー打撃で金田正一、堀内恒夫と並んで快音を響かせていると川上哲治監督が「田中は打撃がいいから野手に転向しろ」と指令された。野手の練習に着手したが、黒い霧事件で主力投手が抜けた西鉄からトレードを打診。71年に移籍した。新天地に移り、出場機会が増えたことで73年に初の2ケタ勝利となる11勝を挙げ、球宴にも初出場した。球史に名をしっかり刻み、77年にユニホームを脱いだ。

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メダルも写真もない。記憶も歳月が流れ、おぼろげになる。それでも“オリンピアン”だったことも含めた球歴に興味を抱き、田中が木更津に開いた、もつ焼き屋「あきちゃん」を訪ねる人も、時にはいる。「こないだ(落語家の)ヨネスケさんが来てくれて、五輪の話もされてね。好きなんだなぁとビックリした。五輪まで出たことを知っている人はなかなかいないから」と思わぬ“突撃”が出場の証しでもある。

2度目の東京五輪はコロナ禍に見舞われている。飲食を営む田中も渦中にいる。「大変だけどね。でもうちは固定客がいるから、まだ恵まれていますよ」と苦労をにじませない。日本代表の後輩たちの戦う姿をどう見守るのか。「お店でテレビを見て、お客さんに解説しながらね(笑い)。約50年前を振り返りながら」と木更津の夏の夜を想像した。【広重竜太郎】(敬称略、この項終わり)

◆田中章(たなか・あきら)1944年(昭19)7月20日、千葉生まれ。千葉経済高、日本通運を経て68年ドラフト2位で巨人に入団。71年に西鉄(現西武)に移籍し、73年に11勝。76年に大洋(現DeNA)に移籍し、77年引退。通算300試合で36勝36敗9セーブ、防御率3・10。