<全国高校野球選手権:明豊7-5一関学院>◇12日◇2回戦

内野陣がマウンドに集まった中、その存在は頭ひとつ抜けていた。188センチ、85キロ。一関学院の左腕、高沢奏大投手(1年)だ。同点で迎えた9回1死満塁。適時打され、犠飛も許して2点を失った。高沢は「先輩たちがつくってくれた舞台なのに、自分が台なしにしてしまって本当に申し訳ない気持ちです」と話し、涙を流した。

明豊対一関学院 7回表に登板する一関学院3番手の高沢(撮影・和賀正仁)
明豊対一関学院 7回表に登板する一関学院3番手の高沢(撮影・和賀正仁)

左腕の大型投手といえば61回大会(1979年)の横浜商・宮城弘明投手の姿が浮かぶ。2年生エースは193センチ、96キロ。高さを生かした速球を武器に準決勝まで進出、春夏連覇を果たす箕島に2-3で敗れた。1回戦で対戦した八幡大付(現九州国際大付)は宮城の高さを意識して、練習マウンドに畳を6枚重ね(約30センチ)その上から大学生投手に投げさせた。それでも攻略ならず、宮城が1失点で完投した。

高校入学時が192センチ、106キロ。宮城野部屋など相撲部屋に、大洋(現DeNA)も自宅を訪れたという。中華料理店の次男坊。父朝雄さんが「食べるものから衣類まですべて3倍かかります」と話したのを思い出す。そんな宮城は神奈川大会の初戦で東海大相模から12三振を奪って完投した。注目カードとあって会場を藤沢から川崎球場に移して行われ、1万5000人の観衆を集めた。東海大相模は創部以来初の1回戦敗退となった。

ビッグ左腕は神奈川大会で6試合を投げ、古豪Y校(横浜商)に46年ぶりの優勝をもたらした。「負けたら福島で合宿をやる予定だったんです。20キロのランニングがイヤだったんで勝とうと思っていたんです」。横浜との決勝に勝利したあと、こんなセリフを吐いていた。

1979年7月、力投する横浜商エースの宮城
1979年7月、力投する横浜商エースの宮城

宮城が引き上げただろう当時の背番号1の平均身長を見ると、176・3センチだった。今大会は177・6センチで1・3センチ伸びている。ちなみに190センチ超えの大谷翔平(花巻東)と藤浪晋太郎(大阪桐蔭)が投げ合った12年のセンバツは177・4センチだった。

1年生で甲子園のマウンドを踏んだ高沢は試合後、3年生から「来年もまた来いよ」と声をかけられた。「必ず行きます、と言いました」。課題は自覚している。「もっと伸びのある球を投げられるように、日々の練習を頑張りたいと思います」。甲子園はあと4回チャンスがある。何回、戻って来るだろう。そして身長はどこまで伸びるんだろう。【米谷輝昭】