1965年(昭40)8月6日、古田は兵庫県川西市で生まれた。兄と妹がいる3人きょうだいの真ん中。生まれた翌年、近くに自衛隊の駐屯地ができ、田んぼや畑も多い自然の豊かな住宅街で、すくすく育った。「わんぱく坊主でした。大阪で言う『ゴン太』ってやつですかね」。体が大きく勉強もでき、走るのも速く運動会ではリレーのアンカーを務める、目立つ存在だった。「でもケンカとかはしなくて。素行はいい方だったと思います」と笑った。

小3から習い事を始めることになった。柔道をやっていた父親からは「柔道ではお金にならない」と野球を勧められ、加茂ブレーブスという少年野球チームに入った。母親からは「私は字が汚いからやりなさい」と書道を習うよう言われた。父親は宇部興産に勤めていたが、大阪に出てきて転職し、いすゞ自動車で働いていた。母親も夜まで帰って来ない共働き家庭。「全然、厳しくとかはなかった。どちらかというと放任でした」。

学校から帰ると、腹をすかせた妹とともに、冷蔵庫をあさった。

「例えばリンゴが食べたいと言ってもリンゴしか置いてなくて、食べたかったら自分で包丁でむいて食べなくてはいけない。スパゲティも置いてあるから、食べたかったら、ゆでたら食べられる。すごい調理とかをするわけではないけど『そんな難しいことじゃないから』って教わって、自分でやってました」

危ないから刃物を使うな、火を使うな、という教育は受けなかった。「それとは正反対でした。両親とも田舎からの出。家業っていうか、田舎って何でもやらされるじゃないですか、そういうの」。やれることは自分でやる。古田家の教えで育まれた自主性は、プロで成功するための重要な資質となった。

1993年(平5)の日本シリーズ第7戦、8回1死三塁。三塁走者の古田は、カウント3-1から広沢克実のバットがボールを捉える瞬間、ギャンブルスタートを切った。相手の極端な前進守備を警戒し、ベンチから指示は出ていなかった。それでも高いバウンドの遊ゴロの間に生還。4-2とリードを広げたヤクルトは、そのまま日本一を手にした。

規則違反ととがめられるのを恐れず、勝負どころと思った古田は自主的に走った。後日、この判断は野村監督から絶賛された。そんなことができたのも、古田家の教育方針のおかげだった。(敬称略=つづく)

【竹内智信】