平成の野球を語る上で、最重要人物が松井秀喜(44)だ。巨人の4番、球界の将来を担う逸材と期待され1993年(平5)にプロデビュー。長嶋茂雄監督から熱血指導を受け、日本を代表するスラッガーに成長した。03年からメジャーの名門ヤンキースの主軸として活躍。09年ワールドシリーズではMVPに輝き、世界一に貢献した。時代をけん引した強打者は今、何を考え、どこへ向かうのか-。新時代を前にした思いを探る。

巨人10年、メジャー10年。日米で活躍し、ファンから愛され続けてきた松井は今、自宅のある米ニューヨーク・マンハッタンで穏やかな時を過ごしている。

引退後は、ヤンキースのGM付特別アドバイザーに就任。傘下マイナーの巡回コーチとして若手の育成に尽力し、私生活では2人の愛息にも恵まれた。幼稚園の送り迎えをこなすなど、現役時代とは異なる時間を送っている。変わらないのは野球への情熱と恩義。球界の未来に自分が出来ること、果たすべき役割は何なのか。時代の節目を目前に、寡黙な男がいつになく熱く雄弁に、心を込めて語った。

最初の語りは12年12月27日、引退の経緯を整理した。ユニホームを脱ぐに至った背景を丁寧に振り返ることも、また珍しかった。

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「松井秀喜引退」

緊急記者会見の会場となったニューヨークのホテルは、日米報道陣でごった返していた。日本を代表する強打者の突然の引き際に、周囲は戸惑った。当の本人は淡々としていた。

「現役を引退する事実と、20年もプロ野球人生をやれた。本当にたくさんの人に応援してもらってきたわけですし、ファンの皆さん、お世話になった方に対する感謝の気持ち、それだけを伝えようと思いました」。

日本球界復帰を含め、現役続行が大方の見方も、自身は違った。開幕後にレイズとマイナー契約を交わし、5月下旬にメジャーに復帰したものの輝きを取り戻せず、苦悩した。結果を残せないまま7月25日に戦力外通告が発表され、シーズンを終えていた。

「7月終わりくらいでシーズンが終わってましたから、気持ちの整理はつけてました。感傷的になるようなことはなかったです。ずっと自分なりに考えてましたから。決断したのは、そのちょっと前。そこまで気持ちの揺れ動きみたいなものはありました。続けるべきか、辞めるべきか、考えてました」

「戦力外」の事実。もがいた末の通告だったから、納得できた。レイズでは古傷である膝の故障に苦しみ成績が低下。一塁守備にも取り組んだ。

「守備も厳しくなってきて『どうしてもDH』の状態でしたから。打てないと、どうしようもない。プレーはしたいけど…その気持ちと客観的な事実に逆らうことが、自分としてはできなかった。突然だったら難しかったかもしれません。シーズン最後までやって、12月に判断できたか。分からないです」

自分の中では突然ではなかった。正面から向き合い、時間をかけて決断した。

「基本的には自分で決めたかな。もちろん両親には話をして、意見は聞きました。ただ、これまでも最終的には自分の思っているところ、強く感じるところを突き進んできました。またメジャーを目指すか、日本に戻るか、辞めるか。3つしかなかった。覚悟を決めてこっち(米国)へ来た以上、戦力外になったということは、自分がチームの力になりきれない気持ちになった。やりたくても、力になれないのであれば、やっても意味がない。シンプルに、そういう感じでした」

力になれなければ、やっても意味がない。野球観の根幹に「勝つために必要とされるか否か」がある。チームの力になれなければ、ファンも喜んでくれない。腹をくくってしまえば、行動は速かった。

「結構、みんなビックリしたんじゃないかと思いますけど。辞めるんだったら、年内のうちに報告した方がいいかなと思いました」

平成の野球界を背負ってきた松井秀喜は、涙を見せることもなく、静かにバットを置いた。(敬称略=つづく)【四竈衛】

◆松井秀喜(まつい・ひでき)1974年(昭49)6月12日、石川県生まれ。星稜時代は甲子園に4度出場。高校通算60本塁打(甲子園4本)。92年ドラフトでは4球団競合の末、長嶋監督が抽選を引き当てた巨人に1位で入団。96、00、02年リーグMVP。ベストナイン8度、ゴールデングラブ賞3度。00年正力賞。03年にFAでヤンキース移籍。09年ワールドシリーズMVP。エンゼルス、アスレチックス、レイズを経て12年に現役引退。13年に長嶋茂雄氏とともに国民栄誉賞を受賞。昨年1月、43歳7カ月の最年少で殿堂入り。現在ヤンキースGM付特別アドバイザー。現役時代は186センチ、103キロ、右投げ左打ち。