「怪物」の片りんは、1年生からうかがえた。71年(昭46)7月23日、夏の県大会準々決勝、烏山戦。作新学院の背番号17、江川の体格は、181センチ、75キロとやや細め。それでも「石投げ」で鍛えた地肩と、下半身のバネを駆使して、何と、夏の栃木県大会初の「完全試合」を達成する。

 普段は、勝っても負けても、ポーカーフェースを崩さないが、さすがにこのときだけは、上級生から祝福され、わずかに口元を緩めている。

 投球内容は、三振8、内野ゴロ11、内野飛球3、外野飛球5。投球数は103で内訳は直球96球、カーブはたった7球。ただ甲子園での三振奪取のイメージからすると、8個というのは、いささか物足りない。

 江川もそこに着目した。「まだ、体が完全じゃなかったんだね。それに、へばってた。ホントに完全試合を達成した実感ってなかった。投げ終わってホッとしたということだけだよ」。

 「へばってた」という言葉が、初々しい。2回戦の足尾戦の4回のマウンドから、公式戦初登板。5イニングを投げて7三振、無安打の失点0、と満点デビュー。中3日で迎えた足利工大付戦では先発。3安打、6三振に完封している。翌日に行われた烏山戦は、連戦、連投で迎えていた。さしもの「怪物」も、まだスタミナに難があったのだ。

 江川の2学年上、3年三塁手だった大橋弘幸は、完全まであと1人となった時、マウンドにいき、声を掛けている。「今日の(寮の)晩ご飯、何だろな?」。その答えに、大橋弘幸はおののく。

 無愛想に、ボソリと「さあ、何でしょうね…」。

 「なんて1年なんだ、と思った。(江川を)落ち着かせようとしたのに、実は自分が一番緊張してたんですね」

 ひょうひょうと、淡々と、偉業に突き進む江川とは裏腹に、ヘビににらまれたカエルならぬ“烏”山ナイン。「不名誉」を7回ごろから意識し始める。

 江川と同じ1年生で6番遊撃でスタメンだった棚橋誠一郎は「部長先生が『このままいったら、やられるぞ』と、あわてだした。逆にプレッシャーになったよ」と苦笑い。7回1死から2番打者が、絶妙のセーフティーバントを敢行。微妙なタイミングながらアウトになった。「セーフ! 絶対セーフ!」と、ナインが入れ代わり立ち代わりベンチを出て審判に猛抗議した。

 烏山3年の7番三塁、神長富志夫は、当日より、その翌日にショックを引きずっていた。「新聞見たら、全国版に“江川、烏山戦で完全試合”と。恥ずかしくて町を歩けないよ」。

 烏山ナインは新チームを契機に「江川憎し」の思いを、日に日に募らせた。2年春には、作新と手合わせを求めた。ここで喫した21三振以上に、捕手の堀江隆には、さらなる戦慄(せんりつ)が走る。江川から、ヘルメット直撃の死球を受けたのだ。

 「江川の球、頭に受けたりしたら、ひとたまりもないよな…」。県内の球児にはおびえも生じていた。一瞬の静寂…。堀江隆は脳振とうを起こしていたものの、何とか一塁に歩を進めた。塁上で何げなく左手を見て、目を見開いた。「とっさに左手を出したんだね。手の甲に、ボールの縫い目の跡が、赤くにじんでついていた…」。付着したのは、縫い目の色ではない。血の赤だった。かすっただけで出血させる超絶直球。立ち向かう術(すべ)はあるのか。

 そんな時、棚橋誠一郎には、ある“秘策”が浮かぶ。

 「ピアノ、です。ピアノを弾くしかないって思った」-。(敬称略=つづく)

【玉置肇】

(2017年4月12日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)