ロス疑惑の報道過熱、グリコ・森永脅迫事件…。世間が揺れた84年。桑田(現スポーツ報知評論家)にとっては追われる立場を痛感する1年だった。

 桑田 どこも倒せなかった池田をPL学園が倒したことで、僕を取り巻く環境も、僕自身の人生もガラッと変わりましたね。

 83年夏の甲子園でPL学園は5年ぶり2度目の優勝。3季連続甲子園制覇を目指した池田の進撃を準決勝で止め、決勝は横浜商に快勝。先発マウンドには桑田が立ち、4番は清原和博。主戦投手と主砲が1年生で、あと4季甲子園出場のチャンスがある。「KK時代」の幕開けだった。一方で、全寮制のPL学園にいても、ファンとメディアが大挙して押し寄せる。桑田は環境の変化をひしひしと感じていた。周囲が新たなヒーローの誕生に沸く中で桑田は思っていた。「物事には必ず二面性がある。いいことがある半面、苦しいこともある」と。

 84年春のセンバツで紫紺の大旗に王手をかけながら岩倉に0-1で敗れる。強力打線が1安打に抑えられ、桑田は8回2死から決勝打を許した。大会28イニングぶりの失点に泣いた一戦は、KKコンビが甲子園で唯一経験した完封負けだ。

 雪辱を期した夏の決勝。PL学園の前に立ちはだかったのは、老練な指揮官、木内幸男が率いる取手二。優勝筆頭候補のPL学園が享栄、松山商など伝統校を破って勝ち進むかたわら、取手二も好投手を擁した箕島、鹿児島商工、鎮西を撃破し、決勝に勝ち上がってきた。当時の5番打者で現在は新日鉄住金鹿島の監督を務める中島彰一は、33年前の夏を振り返る。

 中島 初戦から準決勝と好投手と対戦する中で、うちは力をつけていきました。甲子園ってそういう場所じゃないですか。

 桑田も同じことを感じていた。地方大会を控えた6月、両校は練習試合で対戦している。PL学園が13-0で圧勝していた。

 桑田 その日は僕の調子もよく、取手二打線も沈黙していて、あと1歩でノーヒットノーランという試合でした。ところが甲子園では変貌していたので、練習試合の時とは全く別のチームのように感じました。甲子園という場所では野球の神様が毎年、あるチーム、ある選手に力を与えるんだと実感しました。昨年はPL学園だったけど、今年は取手二にそういう力を与えたんだと思いました。

 桑田はアクシデントにも苦しんでいた。大会の途中で右手中指のマメをつぶし「ボールが投げられない状況になっていた」と言う。決勝当日、台風の影響でプレーボール直前の甲子園は豪雨に見舞われた。桑田は雨天中止を信じたが、33分遅れで試合開始。1日でも右指を休ませたいという思いは実らなかった。

 桑田 ふっと息を吹きかけるだけでも、飛び上がるほど痛かった。指先の皮がめくれていて、ボールに1球1球スピンをかけていくのはとてもつらかった。

 痛みとも闘いながら桑田はショックを受ける一戦へ向かった。(敬称略=つづく)

【堀まどか】

(2017年6月6日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)