右翼の守備に就いていた荒木は、もう投げたくなかった。2番手で登板した石井丈裕が満塁本塁打を浴び、8回無死の場面のまま、2-11と池田(徳島)との差は広がっていた。

 「監督にも、最後の甲子園をちゃんと見ておけと言われて」。バックスクリーン、アルプススタンド、超満員の景色を右翼から見渡していた。「マウンドに行きたくなかった。恐怖というより、もうどうやっても勝てない。勝てない相手に、何で投げないといけないんだというのがあった」。

 ただ、仲間の感覚は違った。捕手の松本達夫は「大輔は僕らのシンボルでしたから。最後マウンドに立っているのは、荒木であるべきだと。みんなの納得感が違う。高校3年間の、区切りを付けられる試合にしたかったですよね」。

 荒木は再びマウンドに上がった。だが、1度気持ちが切れたボールは、「やまびこ打線」には通用しない。再び5安打を浴びて3失点。松本は「ふてくされて、まったくサイン通り投げない。すっぽ抜けたボール投げたり。何で投げなきゃいけないんだっていうオーラが出てましたから。嫌でしょうがなかったんでしょうね」と感じていた。それでも、最後は荒木がマウンドにいるべき。それが早実の野球だった。荒木は計17安打で10失点(自責9)。2-14で大敗し、涙を流すこともなく、高校野球が終わった。

 大会後、全日本高校選抜の合宿に参加した荒木は、池田の選手から、投球時にクセがあったことを知らされた。グラブから出る手首の角度で、球種が分かったという。「何投げてもあれだけ芯でガンガン打たれて、その話を聞いたら、そうだったんだって思うでしょ」。プロ入り後も、打たれたのはクセのせいだった、そう信じ込んでいた。

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 53歳になった荒木は、今でも年に1度開催される早実OB会に参加している。卒業後、初めてチームメートが集まったのは荒木が現役引退した96年だった。赤坂見附の居酒屋に15人ほどが集まって、慰労してくれた。06年に肝臓がんで亡くなった主将の小沢章一(享年41)もいた。

 「オレ学校が好きだったのね。高校野球で一番思い出に残っているのは、甲子園の試合も当然そうなんだけど、みんなと一緒にばか騒ぎしたりとか、練習後に部室で遊んだりとか、そういうことがすごく印象に残っている」

 大フィーバーで外出禁止だった甲子園期間中は、チームメートも一緒に宿舎に残って、雑誌を読んだり、ダラダラと遊んで時を過ごした。大会前の強化合宿では、秀才の同級生に勉強を教えてもらい、みんなで雑魚寝した。学校の行き帰りはいつも友人が一緒で、ファンから守ってくれた。

 3年前からは、毎年12月に水野(元巨人)ら池田OBと早実OBで食事会を開いている。長い間、荒木はクセがあって打たれたと信じ込んでいた戦い。「結局バッターボックスで最初に見た時にクセが見えなくて。もういいよってなったらしい。クセは全然関係なくて、力の差がすごかっただけなんだ」。長く信じた話は幻だった。そんな新事実も今では笑い話になる。

 「いつも言っているのは、あいつらとまたやりたい。早実のユニホーム着て。よく話をするんだよ。でも池田はやめようぜって。勝てる気がしない(笑い)」

 35年前の夏、涙なく大敗した18歳のアイドルは、試合後、テレビカメラの前に立った。NHKアナウンサーから「3年間、甲子園があなたに教えてくれたことは何ですか?」とマイクを向けられた。

 53歳になった荒木は覚えているのだろうか。「分からないよ」。そう言って、思いを巡らせる。「仲間の何かじゃない? 大事さとか、つながりとか…」。

 びっしょりと汗をかいた18歳の青年は「仲間を信頼することです」と迷いなく答えた。

 「やっぱりな。仲間なんだよ。オレ、そうだったもん」。それが荒木の高校野球だった。(敬称略=おわり)【前田祐輔】

(2017年7月23日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)