如水館(広島)の監督・迫田穆成(よしあき=78)は半世紀以上の間、広島野球を最前線で見続けてきた。迫田は広島商3年時に主将として57年夏の甲子園で優勝。67年から広島商の監督に就任し73年春準優勝、夏優勝を果たした。93年から当時三原工だった如水館の監督を務め、春夏合わせて甲子園に8度出場。名将が見る現在の野球とは-。

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 クリームパンにジャムパン。菓子パンがいっぱいに詰まったカゴを両手に持って、グラウンドに現れた。かつては選手を叱り飛ばした迫田が、孫以上に年の離れた選手に目線を合わせる。

 迫田 60歳違うんですからね。(選手から見れば)おじいちゃんより上ぐらいになるんですから。私としてはリラックスして話してるつもりでも、そうはいかんですよね。食べながら会話をすると、普通より印象が違うんですよね。

 迫田は広島商で、選手としても監督としても甲子園優勝を経験。かつての広島は広島商と広陵の「2強」と呼ばれた。だが、近年の勢力図は少し違う。歴代2位の夏の甲子園6度優勝を誇る広島商も、04年を最後に甲子園から遠ざかり、その間に如水館を始め広島新庄や瀬戸内など、新たな有力校が聖地の土を踏んだ。

 小技を駆使した緻密さで「広商野球」と呼ばれ、夏優勝を果たした73年は1番から9番まで全員がスクイズを決めることができたという。「作戦を10個持って行ってそれを大会で3個使ったら、その次は使えない」。甲子園で使う1度のため、そこまでの公式戦では一切使わず、練習に練習を重ね、秘策を温めた。

 迫田 いろいろな対策を考えて、そういうことが緻密な形になったんだと思うんですが。決してすごいことをした、ということとはまた違うと思います。

 如水館で指導を続けながら、選手や野球の変化を身を持って感じている。如水館の選手の多くが、バットを目いっぱい長く持つ。金属バットが導入され、中学時代から硬式ボールを打ち、選手の飛距離は格段に伸びた。迫田の指導法も変わった。力強く振ることを重視。ティー打撃ではスイング速度をスピードガンで測り、140キロ以上が出ない選手はフリー打撃を行うことができない。「数字で出すのが(効果が)一番いい」と目に見える形に変えた。

 迫田 小さい頃から親が「お前小さいからそんなに振ったら駄目だ」とか言わんのですよ。(選手の親世代が)もう大リーガーを見慣れて育っている年代なんですよ。これはものすごく大きいと思います。思い切って振れ、伸び伸びさせたほうがええ、というのがありますよね。

 もちろん、今でも「広商野球」は受け継がれている。迫田の弟・守昭が広島新庄監督を務めるなど、広島商OB約20人が広島県内で指導者になっているという。迫田も広島商監督時代から言っていた「創意工夫」という言葉を、如水館のミーティングでも選手に投げかける。

 迫田 無死一塁(の場面が)来ました。(相手の作戦は)バント、エンドラン、盗塁もあるし。打ったらボテボテあるし、ライナー、フライもある。(守りを)どういうふうにするのが最高なのか。打つほうも(同じ)。そこを1つ1つ考えてやらなきゃいけないのが野球なんです。野球は頭がいるんです。

 変わったものは多くある。しかし、変わらないものも多くある。(敬称略)【磯綾乃】

73年8月、優勝を決めベンチ前で校歌を聞く広島商・迫田監督(右)
73年8月、優勝を決めベンチ前で校歌を聞く広島商・迫田監督(右)
11年8月、好投の浜田を迎える如水館・迫田監督
11年8月、好投の浜田を迎える如水館・迫田監督