島根の松江北と大社は、全国でも15校しかない「第1回大会から連続参加している高校」だ。1915年(大4)に始まった選手権の県大会に、毎年欠かすことなく参加し続けている。甲子園にも、松江北が選手権2度、センバツ2度、大社も選手権8度、センバツ2度の出場を誇る。

     ◇    ◇

 46年の選手権(西宮球場)に出場した松江北(当時松江中)の中村(旧姓三島)倹三(86)は「アガってしまい、トス打撃もまともにできなかった。自分が井の中の蛙(かわず)だと痛感しました」と初の全国の舞台を振り返る。

 長い歴史の中には、記録が途絶えそうになる出来事もあった。大社は59年(昭34)の西中国大会島根県予選の準決勝で、全国的にも珍しい放棄試合を経験している。「大社高等学校野球部史」によれば、7月25日、大田との準決勝は投手戦。0-0の延長14回裏、大社は無死二、三塁の好機をつかむ。ここで打者がバントしたが、その打球を捕った投手が打者走者にタッチしなかったとの判定に大田の監督が猛抗議。試合は約40分中断、午後7時45分に判定通りセーフとして再開となったが、日没で試合は続けられず、引き分け。翌26日に再試合となった。

 これに大社側は反発。抗議で試合時間を長引かせたのはルール違反だと指摘し、大田の監督と審判団が試合に関わらないことを条件に再試合に応じるとしたが、認められなかった。当時、大社の2年生で二塁手のレギュラーだった中筋和美(75)は「選手は、再試合でもいいからやらせて欲しいと頼んだがダメだった」という。

 中筋によると、やがて主催者から「試合はしないが、ユニホームを着て球場に来てほしい」と要請されたため、選手は野球道具を持たずに球場入り。「ベンチ前などでうろうろしていたら、相手は試合を始めるようすで、やがて審判団が出てきてプレーがかかり、しばらくすると放棄試合になった。なんのことだか分からなかった」と述懐する。解説者として現場にいた中村も「両校ともによく鍛えられたチームだった。(放棄試合になり)ああっと思った」と振り返る。

 傷心のナインは、夜行列車に乗って帰った。この騒動は地元にも伝わり、深夜にもかかわらず多くの車が集まり、出雲大社正面の広場に約2000人が出迎えたという。

 大田はこの後、選手権に出場したが初戦敗退。大社はその年の年末まで、大田は翌年7月末まで対外試合自粛を勧告された。県大会出場が途切れなかった大社は、放棄試合の悔しさを晴らすように、翌年から2年連続で選手権に出場。中筋は「甲子園ははるかかなたの存在だったが、大田が出場したことで近づいた」という。

 大社は近年も県大会の決勝や準決勝に進出しているが、石見智翠館や開星などの私学の壁をなかなか越えられず、92年以後は甲子園から遠ざかっている。進学校として知られる松江北は、県大会で初戦敗退など苦戦が続く。甲子園も02年の選抜に21世紀枠で出場したが、選手権は中村が出場した46年を最後に70年以上出ていない。「県大会の連続出場は続けてほしい」と中村はいう。その先に甲子園があり、そこで自分たちが体験したことを、後輩たちにも味わってほしいと願っている。(敬称略)【高垣誠】

 ◆島根の夏甲子園 通算29勝61敗。優勝0回、準V0回。最多出場=浜田11回。