比嘉公也(36)は沖縄の球史を2度、変えた。沖縄尚学のエースだった17歳の春、第71回センバツで県勢初の甲子園制覇。母校を率いた26歳の春は、エース東浜巨(当時3年=ソフトバンク)を擁し、センバツ王者に返り咲いた。沖縄の野球人初の甲子園優勝エース、優勝監督になった比嘉が守ったのは、恩師から伝えられた諸事徹底だった。

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 ウエーブが、大入りの内外野スタンドを駆け巡った。大ヒット曲「ハイサイおじさん」で知られる歌手、喜納昌吉が応援を先導し、甲子園が沖縄色に染め上げられた99年4月4日。初出場から41年の時を経て、沖縄初の甲子園王者が生まれた。

 のちに広島で活躍する比嘉寿光(広島編成課長兼広報課長)が主将で、松山聖陵監督で今春センバツに出場の荷川取秀明が1番打者。ただ、前年秋の九州大会で日南学園に完敗し、ナインの優勝への意識は低かったという。

 迎えた初戦。プロ注目のエース村西哲幸(元横浜)を擁する比叡山を比嘉公也が1-0で完封し、学校初の春1勝を挙げる。さらにチームを上げ潮に乗せたのは準決勝。相手がPL学園に決まったときだった。

 比嘉 優勝よりもPL、みたいな気持ちがあった。PLの持つ野球界の魔力というか。負けてもしようがないじゃない、絶対に勝つと思っていました。

 比嘉は2回戦で右足首を捻挫した。本調子にほど遠い体調で、田中一徳(元横浜)らのちにプロになる4選手を擁した優勝候補を相手に延長12回を完投。8-6の勝利をつかんだ。理学療法士がテーピングを施し登板可能な状態にしてくれてはいたが、PL学園と戦う高揚感が212球の熱投を支えた。山越えを成し遂げたエースは翌日、照屋正悟の2失点完投にベンチから拍手を送った。沖縄を熱狂させた初優勝が、9年後の快挙への礎になった。

 進学先の愛知学院大では左肘痛のため、3年で学生コーチになった。在学中に高校社会の教員免許を取り、卒業後は沖縄県職員として浄水管理事務所に勤めながら沖縄大で地理と歴史の免許も取得。06年6月に母校監督になったが、同年9月に部内で暴力事件が起きた。1カ月の対外試合禁止処分で、翌年センバツは消えた。試練も、指導者・比嘉の基盤になった。

 教え子に理解させたいことが比嘉にはあった。高校時代、監督の金城孝夫(長崎日大監督)に教えられたのは「日頃の甘さは勝負事に出る」ということ。弥富など沖縄の外で指導経験を積んだ金城は「『なんくるないさ』で勝負事は勝てない。それを理解させようと5分前行動を徹底させました」と語る。

 時間厳守、日常生活のルール厳守を徹底。選手は半信半疑だった。だが甲子園初制覇で、常日頃が野球につながることを知った。

 比嘉 「沖縄タイム」と時間のルーズさをよく言われますが、それよりも、1つのことを最後までやりきれない。執着心とかが出てこない。そういうところがあった。

 執着心は諸事をやりぬくことで身についた。経験を成功体験として語れる指導者を信じ、東浜ら教え子は「自分たちもやれる」と目標を全国制覇に設定した。

 比嘉 ぼくらは、結果につながるの? みたいな思いがあったが、東浜らはそうは思ってなかった。それを証明したのが、ぼくらが現役の時の優勝なんだと思います。

 08年4月4日。エースから監督に立場を変え、比嘉は紫紺の大旗と再会した。(敬称略)【堀まどか】

 ◆沖縄の夏甲子園 通算69勝49敗。優勝1回、準V2回。最多出場=興南11回。

08年4月、センバツ優勝を決め笑顔の沖縄尚学・東浜(左)と比嘉監督
08年4月、センバツ優勝を決め笑顔の沖縄尚学・東浜(左)と比嘉監督