絶対王者として目標にされたとはいえ、松坂1人だけで勝てるはずもない。横浜率いる渡辺は、全体練習に加え、個別メニューにも力を入れた。選抜後、松坂は高校生としてほぼ完成の域に近づいた。だからこそ、女房役、捕手の小山良男を徹底して鍛え上げた。

「入学当時、小山はいい捕手だとは思えませんでした。最初は、速い、ってポロポロ落としてました」

いかに松坂が超高校級でも、捕手が力不足ではおぼつかない。小山は時速150キロに設定したマシンで捕球練習を繰り返した。近距離で高速ノックを課したのも、スピードに慣れるためだった。座学で配球を学び、快速球を完璧に捕れるまで成長した。松坂以外の「個の」レベルを上げることが、連覇へのカギだった。

最後の夏を迎える時点で、もはや猛練習は必要なかった。軽めのメニューを終えた松坂は、週2回ほど、都内のジムやプールに通った。強化だけでなく、コンディショニングを重視する、当時の高校球界では画期的な取り組みだった。

無論、実力だけでも勝てない。甲子園への出発前、3年生からの申し出に渡辺は確かな自信を覚えた。通常、夏は翌年以降を見据え、2年生を応援部隊として連れていく。ところが、松坂らは「3年生全員を連れていってください」と頭を下げてきた。渡辺は洗濯当番など雑用係をこなす条件で承諾した。試合に出ない選手の保護者も、現地でのサポート役を買って出た。

「ユニホームを着ていない連中まで仲が良かった。これは強い。これほどひとつにまとまったことはない。結局、技術だけでは勝てない。一番はチームワークの勝利だと思います」

エース松坂はベンチ外の選手への気遣いも忘れることがなかった。投手ながら「イップス」に襲われ、打撃投手もままならなかった大竹元樹(伝々社)は、今も松坂の言葉が耳に残っているという。

「何もしなくていいから甲子園に来てくれ、と言われた時は本当にうれしかった。マツはメンバー以外も大事にしていた。下に見ないというか、レギュラーと同じように接してました。いつもありがとう、って言ってましたから」

現在も、自主トレのパートナーなど、公私に親交の深い常盤良太が続ける。

「自分1人でこんなことはできないと、本気で思っている。それがマツのすごいところだと思います」

実力と結束力を兼ね備えたチームは、死闘にもひるまなかった。準決勝の明徳義塾戦。ベンチでは無表情でも、渡辺は敗戦を覚悟した。松坂投入は、その表れだった。「最高のメンバーで負けて帰ろう。そう決断したんです」。ただ、名将渡辺にして、平常心は保てなかった。反撃後、自ら出したはずのサインは記憶にない。それでも、最後は校歌がこだました。

「甲子園には魔物がいるといいますが、たまたま横浜にいなかったということでしょうか。1つの大会で3試合。奇跡という言葉は使いたくないですし、選手をほめたい。でも、今考えると、やっぱり奇跡かな、とも思います」

万難を排し、万事を尽くして勝ち取った春夏連覇だった。

    ◇    ◇     

第100回の記念大会を迎えた今年。監督を退いている渡辺の手帳は、全国各地での講演、解説、取材などの日程でギッシリと埋め尽くされていた。

「いろんなところで松坂のことを聞かれます。あれから20年ですか…」

そして、大阪桐蔭が横浜を超える2度目の春夏連覇を果たした。準優勝した金足農の捕手・菊地亮太は、横浜捕手・小山と同じように捕球を特訓し、吉田輝星の快投を引き出した。絆は時を超える。(敬称略=つづく)【四竈衛】

横浜OB大竹元樹氏
横浜OB大竹元樹氏