横浜商(神奈川)三浦が、PL学園(大阪)桑田真澄と初めて会話したのは、1983年(昭58)夏の甲子園後、全日本選抜としてともにアメリカ遠征に行ったときだった。池田(徳島)水野雄仁、中京(現中京大中京、愛知)野中徹博に加え、1年生の桑田が宿舎で同じ部屋になった。

三浦 いきなり桑田が「パンツください」って言ってきた。まさかの初めての会話だった。信じられないでしょ。

当時、PL学園の1年生は白い下着しか身につけてはいけない習わしだったという。三浦は「トランクスを2枚やりましたよ。今でも会ったら、そのことを思い出話にします」と笑う。

三浦は2年時に早実(東京)荒木大輔と対戦。3年時には桑田らが出てきた。全日本でチームメートになったように同学年には水野、野中らがいた。甲子園のスターが次々と生まれた時代。三浦もその1人だった。3年間で届いたファンレターは約7万5000通。三浦の部屋の窓は、ファンレターが入った段ボールが山積みで、開けることができなかった。

三浦 おやじがいきなり「ここ」にサイン書けというから何のことかと思った。そうしたらたくさんのはがきに印刷して、返信していました。

1つ1つに返信するのは難しいが、何か返すことができないかと、父洋明が思いつき「サインはがき」を作成。住所が分かるファンには、お返しのサインはがきが届けられた。

川崎の自宅の周辺にもファンが集まった。卒業を目前とした3年生時の2月14日のバレンタインデーには、4トントラックに加え、2トントラックがいっぱいになるほどチョコレートが学校に届いた。同級生の彼女からも届くなど、修羅場間違いなし? というケースもあったという。

そんな騒ぎも甲子園に出場したからこその経験である。勝利を積み重ねた結果だった。

三浦 練習はしてないと言っても、それなりのことはした。甲子園に行くためにやるべきことはやった。とにかくがむしゃらだった。つらいこともたくさんあった。でも勝った瞬間に全てが吹っ飛ぶんです。

三浦にとって、忘れられない言葉がある。3年夏の神奈川大会でのこと。当然のように準々決勝、準決勝、決勝と3連投した。体重は8キロ減った。準決勝後にはそのまま病院に駆け込み、点滴を打たれるほど体力を消耗していた。過酷な神奈川の夏を勝ち続け、夏の甲子園の切符をつかんだとき、厳しかった父洋明に初めて「よくやった」と褒められた。

三浦は現在、愛知・刈谷市内のスポーツ用品店に勤めながら、名古屋市内での野球塾にも出向いている。勝利の喜びを知ってほしい、勝利から得るものを体感してほしい、と願いながら小中学生の指導にあたる。全国の頂点にあと1勝届かなかった男は言う。「勝て」と-。(敬称略=おわり)

【宮崎えり子】

(2017年9月2日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)